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73-3 建築家紹介23 渡辺真理+木下庸子/設計組織ADH

パートナーシップ

木下庸子氏(左)渡辺真理氏(右) 写真撮影:ナカサアンドパートナーズ

今月は、モデルナ(TS集合住宅)を設計した、設計組織ADHの代表、渡辺真理、木下庸子夫妻にご登場願います。

―ご夫婦の事務所としてこれまでやってこられていますが、建築家としてのスタートはどういうものでしたか?
渡辺:大学卒業後、京都の大学で教えたり、磯崎アトリエで半年間アルバイトをしてからアメリカへ行き、ハーヴァード大学のデザイン学部大学院に1年間入って、その後アメリカの事務所でも仕事をしました。帰国する頃、磯崎新アトリエに「ロサンゼルス現代美術館」の担当スタッフとして入れていただきました。その後「パラディアム」というNYの巨大なナイトクラブをつくったり、いくつか別のプロジェクトにも参加したりして帰国しました。
木下:私は、もともと子供の頃から、父の仕事の関係で日本とアメリカを行ったり来たりの生活で、ハーヴァードで建築を専攻し、24歳で帰国して、内井昭蔵事務所に入りました。
―渡辺さんとはハーヴァードでお会いになったんですね。
木下:突然、「ハロー、ハワユー」と話しかけてくる人がいるから、「この人はいったい何なのだろう」とびっくりしましたね(笑)。
渡辺:日系の人もいるし、日本人とは思わなかったから。僕は多少なりとも英語に自信があって渡米したんですけどね。最初は大変でした(笑)。
―その後ADHとして事務所を設立されたのは、どういうきっかけだったんですか。
木下:1987年、二人ともちょうど独立した頃ですが、ある仕事を引き受けることになり、二人ではやりきれそうもなかったので、独立したばかりの牛田英作さんと妹島和世さんと4人でチームを組みました。
渡辺:ところがその仕事は会社組織として契約する必要がでてきたので、僕が代表で会社を作りました。最初は「ad hoc」(そのために特別に作った、という意味の英単語)という名前が背景にあったんです。しかし結局、その仕事は実現しなかったんですね。
―ああ、聞いたことがあります。六本木のディスコ「トゥーリア」で照明落下事故があって、それでプロジェクト自体がなくなってしまったとか・・・。
渡辺:ええ、そこで<ADH>という会社を引き継いで我々2人で仕事をしていくことになりました。
木下:でも「建築は、一人の作家で作るものではなく、チームで作る―それがいいところ」という姿勢は当初からありました。事務所に入って1年目の人でもいろいろアイディアで提案できるものはある。10年やった人が1年目の人より、いつもいいアイディアを出せる、というものでもない。いろいろなレベルで経験年数のある人の方が長けている部分はもちろんあるが、ルーキーでも参加できることがあります。
ですから事務所の名前にはあえて個人名でなく、ADH-Architecture Design Harmonics (建築設計和音) として、どの仕事も2人の代表者名でやっています。
渡辺:それは僕たちだけの特徴ではない、われわれの周りにはそういう人はいっぱいいます。ユニットとしてはみかんぐみとか・・。時代がそういう方向になっている、ということはあると思いますよ。
―お二人とも一方では、大学の先生という役割をお持ちですね。いろいろな行政のミッションに参加されていたり、社会的な役割を積極的に果たそうとしているようにみえます。
渡辺:意識しているというより、年代がそのように声がかかるようになってきたということはありますね。時間が許す限り、自分の経験から貢献できることはしたいと考えています。
木下:もちろん作品も重要ですが、アーティストのように作品を見てもらいたい、ということではなく、やはり社会に役に立つことをしていきたいというスタンスではあります。
大学では、若い人がどういうことを考えているのかを知ることが楽しいですね。提案してくる事柄、フレッシュなアイディアに接することは面白く、刺激になりますね。
―お二人で共同作業をする点でのメリット、デメリットは?
木下:やはり別の視点から同じプロジェクトを見ることができるメリットが大きいです。責任は2人とも代表なので感じていますが、常に50、50の分担ではない。状況に応じて一人が多めにやらざるを得ないのですが、そのとき主ではない方が客観的に見ることができる。ちょっと全体から引いたところでクールに判断できる人が同じ事務所内にいる、ということは私にとって心強いですね。
渡辺:磯崎さんのところで働いていたから、一人の建築家のもとでやることの良さとそうでないやり方があるとは理解しています。チームで仕事をする上では複数の視点の良さを強調しないとならない。複数の視点とか考え方は重要だし、ダブルチェックをして、建築の質を高めたいことはある。しかしオリジナリティを失わないようにしなくてはならない。組織が大きくなれば、チェック機能は高まるけど、どんどん個性はなくなって、問題点もないが長所もないということになっていきます。だから小さい組織はその存在意義があるようにと、常に考えています。
木下:デメリットではないが、事務所スタッフは重要事項を我々2人に確認することになっているので、施工現場には決定が遅いという迷惑があるかもしれないですね。工事監理になると、どちらが主体で現場に行くかは決めています。一人の発言のあとに、もう一人が違うことを言うということは避けていますね。
―先ほどの学校の先生としてのお立場のように、個人の活動が事務所としての活動の活性化に繋がるということもありますね。
木下:昨年、「都市再生機構」で発足した「都市デザインチーム」のチームリーダーの要請があり、私は現在週3日くらいそちらにも出社しています。仕事の内容は、昨年6月全面施行した「景観法」をふまえて、都市を考える部署として、これからのプロジェクトを進めていくものです。
ご存知のとおり、今独立行政法人となっている「機構」は大量の賃貸集合住宅を管理しているわけです。基本的には今後新築は行わずに、今までの建物の建て替え利用をしていかなくてはならない。また土地をプロデュースする仕事にシフトしていくことになります。そのためには都市の将来の景観を見据えたビジョンを持って仕事を進めなくてはならないのです。大きな組織なので、仕事の運営上のシステムが完成してしまっていて、量産時代に必要だったルーティンで仕事をこなしていくシステムが、適合しなくなってきている。私のような外部の血を入れることも有効ということでしょう。情報発信などの役割も期待されていると感じます。
―後に続く女性建築家の励みになるでしょう。渡辺先生も地方の問題について、雑誌などで発言されている記事を拝見しておりますが・・・。
渡辺:大学で教え始めてからいろいろと意見を求められますね。サイドエフェクトとして学生には、設計だけでなく「社会に発言しなくてはいけない」ということを伝えたいですね。それぞれの問題は一筋縄ではいかないし、全てが建築で解決できるわけではないのですが、「社会を見る」ことの重要性を教えたい。
また、建築家として、今後は「通りすがりの素人が見ても良さがわかる、何か伝わるものがある建築」を作っていきたいと感じています。
―どうもありがとうございました。
profile
渡辺真理
1977年  京都大学大学院終了 1979年 ハーヴァード大学デザイン学部大学院終了
1981年  磯崎新アトリエに勤務。ロサンゼルス現代美術館、ブルックリン美術館など担当
1987年  設計組織ADHを設立。現在同代表。法政大学工学部建築学科教授
木下庸子
1977年   スタンフォード大学卒業 1980年 ハーヴァード大学デザイン学部大学院終了
1981-84年 内井昭蔵建築設計事務所勤務
1987年   設計組織ADHを設立。現在同代表
      日本大学生産工学部他講師多数
2005年より都市再生機構都市デザインチーム チームリーダー
ADH
主な作品
「湖畔の住宅」、「沼津の住宅」、「NT」、「SK」、「TN」、「NN」、など
主な受賞
1988年SDレビュー入選、吉岡賞受賞
2000年日本建築家協会新人賞
2001年日本建築学会作品選奨
2002年日本建築士会連合会優秀賞
2005年JIA環境デザイン賞など

61-3 建築家紹介12 大堀伸/ジェネラルデザイン一級建築士事務所

「適解を求める仕事」

大堀 伸氏

 

今月は、ジェネラルデザインの大堀伸さんにご登場いただきます。弊社では、この3月にH邸ほか2件の個人住宅を竣工させていただきました。
現在、神宮前のマンションに住居を含めた3室を借りている大堀さんは、自分は仕事とプライベートは切り離せないタイプとおっしゃいます。1つは寝るところ、1つは打合せ兼私物のスペース、そして事務所と結果的に職住接近になってしまったそうです。ご自身でリフォームされたそのうちの一室でお話を伺いました。
―お客様は、クリエーターが多いのですか。
大堀:そうですね。ファッション、デザイン、音楽関係の方が多いです。共通の知り合い、過去の仕事を介してのご紹介が多いですね。仕事が掲載された雑誌をごらんになられたお客さんとだいたい半々です。
―武蔵野美術大学の建築学科の出身ですね。
大堀:そうです。卒業後、友人の勤めていた設計事務所に2年勤め、その後2年はぶらぶらしていました。旅行に行ったり、公園で本読んでいたり・・。
―どうやって食べていたのですか(笑)。
大堀:効率のいいバイトなんかで・・。それから武蔵野美術大学時代の友人鄭秀和と遠藤治郎と3人で「インテンショナリーズ」という設計事務所を設立し、住宅からショップのインテリアデザイン、ステージセットや照明、プロダクトデザインなどジャンルにとらわれず片っ端からやりました。3年を一つのタームと考えていたので、その後それぞれの道を歩んでいます。
鄭はそのまま「インテンショナリーズ」を引き継いで、空間のデザインのみに納まらず、家電などのプロダクトデザインまでその活躍ぶりはここでお話しするまでもないと思います、遠藤はオランダ留学後、スリランカへわたり、今は東京とタイを行き来し、住宅からバンコクのコンサートホールのステージデザインなど幅広くユニークな仕事の仕方をしています。僕は一番地味に古典的な設計事務所をやっているのでしょうね。みんなこの近くに事務所を持っていますよ。
―H邸やT邸などを拝見すると、大堀さんは、シンプル、ミニマルな設計が多いのでしょうか。
大堀:特に意識していませんし何をもってシンプルだったりミニマムというのかよくわかりません。そのプロジェクトにおいて必要と思われること、有効と思われること、それらの優先順位がぶれないように心がけているだけです。
―住宅については、どう考えていますか。
大堀:僕はあまり最初から、「住宅」だからこうあるべき、という考え方から始めたくないと考えています。毎回プロジェクトの最適解を模索し、クオリティの高い成果物をクライアントに投げ返すことだけを実践しています。それがたまたま住宅だったり、お店だったり、学校だったりということです。
個人住宅の仕事が多いですが、店舗のインテリアデザインも割とやっています。それと地方の美容専門学校の現場が今竣工直前です。一つのジャンルを専門にというよりバランスよく仕事をやりたい。事務所の業務内容的には効率悪いと思いますが、僕にはその方が精神衛生上いいんです。

―建築家を目指されたのは、いつごろですか。
大堀:祖父が大工で、毎日かんなをかけているような風景が身近にあって、ものを作る現場、建物と空間ができあがっていくプロセスが面白いと感じたのが始まりです。小学校に入る前から漠然と興味を持っていました。
設計という仕事を意識し始めたのは、高校生の頃、それでも将来自分で設計事務所を持ってなんていう具体的なヴィジョンなどは全然ありませんでした。周囲の状況や出来事に流されながら動いた結果、現在に至るという感じです。
今でも様々な関係者の話を聞きながら仕事を進め、次第にプロジェクトが進むべき方向に自然にまとまってゆくという感覚を持って仕事をしている気がします。最終的に出来上がったものは、クライアント、うちのスタッフ、設計協力事務所、そして施工会社その他大勢の関係者がある期間一つの、もしくはそれぞれの、目的に向かって精一杯動いた結果であり、自分もその中の一人でしかないと。
―今、やりたいのはどんなことですか?
大堀:これまで僕の中には評価してもらえる人にだけ評価してもらえたらいい、気の合うクライアントと気分よく仕事がすすめられたらそれでよいというような気持ちがありました。今はもう少し幅広い、いろんな立場の人がその空間に入り、使用し、感じ、意見を持ってもらえる建物の設計をしてみたい。そのためには自分がやっている仕事を世間にプレゼンすることがもう少し必要かなと感じています。
逆に伺いたいんですが、辰さんみたいにこういうニュースレター作って配っていらっしゃるゼネコンって少ないですよね。
―ありがとうございます。建物を建てる楽しみのようなものをお伝えできればと考えています。施工会社の現場監督は大変ですから、うちの仕事ぶりを毎回きちんとご紹介しておきたい気持ちもあります。
大堀:そうですね、監督によって建物の質はかなり左右されますよね。現場がぴりっと且ついい雰囲気である場合とそうできない人がいるし、お客さんに対しても話がきちんとできる方もいるけれど、そうでない場合もある。
―若い人は現場で最初は苦労するようですが、何年か経つと相当しっかりしてくる。学校で誰かに何か教えてもらわないとできない、なんて言っていられないようですよ。習うより慣れろですね。
大堀:僕らもそうでしたよ。ほとんど実務経験無しで友人だけで事務所を開いたときは、手探りの状態。身近な出来ることからやってみようかというスタートでした。設計実務だけでなく社会との接し方、小さいながらも会社のあり方とは、とよく3人で気合いを入れていました。
一人になってジェネラルデザインの最初の仕事は大阪の10坪程度の小さな洋服屋のインテリアデザインでした。その後は仕事も増えましたが、数億の建物の設計をいくつかやりながら、隣の机で小さな古本屋のインテリアデザインを平行してやったりしてきました。効率の良くない手探りのやり方は今になってもあまり変わらず、毎回プロジェクトごとに試行錯誤しているような毎日です。そしてプロジェクトにかける必要なエネルギーはその規模には全く関係がないと日々実感しています。
―今日はどうもありがとうございました。
大堀 伸
1967年 岐阜県生まれ
1990武蔵野美術大学建築学科卒業
1992武蔵野美術大学大学院修士課程修了
1995インテンショナリーズ共同設立
1999ジェネラルデザイン設立
主な仕事
S邸
N邸
富ヶ谷の住宅
ギャラリーロケット
cowbooks
gantan

60-3 建築家紹介11  桑原聡/桑原聡一級建築士事務所

「生活のデザイン」

桑原聡氏

―辰は、桑原さんの「新宿M邸改修工事」「神宮前5179」ほか、改修工事も多数施工していますが、お客様とはどういう出会いが一番多いのですか。
桑原:以前建てた方からのご紹介が多いですね。比較的言われたとおりにがちがちにやるタイプですよ。前いたところも不動産会社でしたから。
―そうですね。
桑原:当時は学校を出て、すぐに大きなものを20とか30とかやらせてもらって、それはそれでよかったのですが、一人で設計をするわけではなかったら、自分自身でデザインしていきたい気持ちがずっと高まっていきました。
―独立されてからは?
桑原:いっとき集合住宅の調査などを手伝っていました。もともと大学でも研究室が集合住宅についてやるところでしたから、集合住宅での住み方の調査を行って実態を把握していく、という感じでしたね。
―そういう中で、感じられたことがあったのでしょうか。
桑原:そうですね、僕はその中でどうしても「大きなもの」に対する嫌悪感が出てきて、大きな団地なんかの調査をしていくうちにほんとに巨大な集合住宅の問題点を感じたんです。殺伐とした環境を変えていきたいという気持ちがおきて、それから「小さなものでクォリティが高いものを建てたい」と思うようになりました。その辺が辰さんとマッチングするのかな、と思っています。
―辰とは、社長の森村の飛び込み営業でおつきあいが始まったとか。
桑原:そうそう(笑)、たまたま渋谷3丁目のお知らせ看板でね。「もう決まっていますけど、今度機会があったら」ということで、新宿のM邸改修工事をやってもらった。
―マンションの2フロアの改修工事。うちの社会的任務みたいなものですね、適度に小さい物件。
桑原:コストの面でもみんな苦労しますよね。そこの折り合いをつけるのがジレンマですね。作りたい住宅はあるのだけど、お金がかかりすぎて・・ということもある。
―そういう意味では、個人の昔の普請道楽のような方は減りましたよね。例えばIT新進企業の役員の方は、お金持ちで高層マンションの一室に住んでいても、一戸建てを建てて・・という感覚はなくなっているようです。
桑原:住宅に対して、期待度というのはさほどなかったりするかもしれません。実は住宅に何を求めるかというと、「いい住宅とは何か」という議論ももちろんわかるんですが、昔とはもう全然違う状況になっている。住宅の滞在時間は都市部では低いじゃないですか。どうしても、都心では賃貸で身軽に移れる方が楽。例えば僕はわりと家にいる方だけど、それだって決して長くはないですよ。うちの奥さんも娘も全然家にいないです。サラリーマン並みに、朝出かけて夕方5時に帰ってくる。専業主婦ですが、子供の習い事とかお付き合いで忙しい。そういう人は多いのではないですか。
―私もそうでした。子供とずっと家にいるなんてストレスがたまります。
桑原:住宅でも「なんとなくねぐらがあればいい」という時期がある。ほんとに自分の満足いく住宅を求める世代というのはもっとお年寄りですね。家での滞在期間が長い人たちになります。僕ら以上の年代、50歳以上ですね。

今の若い世代は経済的にも大変だし、年取ってからもっと田舎で家を持った方がいいと思うんです。僕自身よいと思っているのは、長野。はるかに安い値段で十分。都心はねぐらと考えればいい、長野でなくても千葉でもいいのですが、郊外の空気のいいところで過ごすというのが夢ですね。実践したいし、そういうことを人にも提案したいと考えている。
―そうですね、桑原先生はご自分のHPでも、自分の生活を建築家として反映させたい、とおっしゃっています。
桑原:一つには、設計というのはハードな部分ですが、ソフトな部分、もっと生活とかライフスタイルの嗜好性のデザインという部分があるわけで、生活をデザインしていかざるを得ない。生活のデザインという意味で自分に「貯蓄」は必要です。お金じゃないですよ。「経験」ですね。
―桑原さん自身毎年海外に行って刺激を受けて帰ってくるようにしていらっしゃいますね。
桑原:今はまだ子供が小さいので開かれた場所にしか行っていませんが、そのうちアルプス縦走するのが夢ですね。僕は、大学時代山登りをしていたので「移動する」ことはほんとに抵抗ないんですよ。若い頃は年間3分の1は山にいて、日本の高い山にはほとんど登りましたね。冬なんかおもしろいですよ。建築の学生って課題があるから忙しいでしょう。でも提出期限があってもその前の土日に山に行く計画があれば、僕は絶対にいくんです。そのために、前もってスケジュールを立てる。行くためにはどうすればいいかを必死に考える。僕の1週間というのは、山登りのための2泊3日を引いた4日間が実働時間でした。ですから、課題提出まで3週間あったら、12日間というのが与えられた日程。その締め切りに対しては、絶対に遅れないと決めていた。人によっては、いつまでもやっている人がいますが・・・。僕は絶対に終わらせる。
―は-、立派ですねぇ。
桑原:山に行く往復の電車の中も考える時間に当てていました。
―私など忙しがって「趣味の時間も持てない」という言い訳をしてしまいがちですが、結局自分の時間をどうコントロールするかですね。
桑原:時間を自己管理することが生活をデザインすることなんです。
―宣言されるから、周りも納得するしかない。
桑原:まぁ、ぎりぎりになって宣言することもありますがね(笑)。こういう具合に「自分の時間を管理する」ということを山を通してやってきました。それから「山」と言っても、僕は120%楽しまないと帰ってこないんですよ。例えば冬は、クライミングでしょう。それなりに装備を持っていくんですよ。でも吹雪で天候が悪くて、現実には冬の間はほとんど登れない。それじゃつまらないからあらかじめスキーを持っていく。で結局冬山に行って4回のうち3回はスキーやって帰ってくる。絶対に損しないようにいろんな計画を立てるんです。
だから建築でもそうなんです。「絶対にこうじゃなくちゃならない」とはあまり思わなくて、「こうだったらこう」「そうじゃなくてこうだったらこう」と結構変更に対処しちゃう。よく器用だと言われるのですが、自分で楽しむために柔軟に受け止める、ということがなんとなく身についていますね。
―何か「営業力」というか、先生はわりと難しいお客さんともトラブルがない、そういう柔軟性がコミュニケーション能力とも言うべき部分と感じます。
桑原:意識していないところでそういう部分はあるかもしれない。人間関係の読みという部分はあるじゃないですか。不器用な人っていきなり直接的にぶつかってしまうでしょ。人によってやり方が違うんですが、お客さんだって、自分と全然違う人間ですからね。

この冬は志賀高原に10日くらいいたのですが、あそこはIT環境がスキー場全体に整備されていて、たとえ自分の宿泊したホテルでなくても、すべて無料でインターネットができる。だからパソコンさえ持ち歩いていれば、僕なんか指一本で設計ができるから、仕事できちゃう。必要なこともメールで連絡を取りあえるし、もちろん現場は生ものだから確認しなくちゃいけない場合もあるけど、四六時中というわけではない。この商売を選んでよかったな、と思いましたよ。そのうち「住所不定建築家」とか言われるようになったりしてね(笑)。3000mの高山でも電話かかってきて、仕事はできちゃう、そんなことも起こりえる時代です。だからいい時代をもっと生活に前向きに使いたい、それが「デザイン」ということだと思うんですよ。「良くなっていく」ということで満足するというより、自分の中でどういう潤いがあるか、よく自分で選んで時間を有効に使っていきたいと思いますね。
―どうもありがとうございました。

 

桑原聡(くわはらさとし)

1960年 東京都生まれ
1984年 東京理科大学理工学部建築学科卒業
1986年 東京芸術大学美術学部大学院建築科修了
1986年 株式会社リクルートコスモス設計監理部勤務
1992年 株式会社コスモスモア設計部勤務
1994年 桑原聡建築研究所設立
2000年 事務所をアトリエとオフィスに分割、移転
2002年 アトリエを港区台場に移転

72-3 建築家紹介22 長田直之/ICU⁺

「多元的な空間が豊かな全体像を再現する」

長田直之氏

 

―今月は、「blocco(王子集合住宅)」「kh」の設計者、長田直之氏にお話をうかがいました。
―建築家になりたいと思われたのはいつごろですか。
長田:小学校6年生の修学旅行で、京都国際会議場(設計:大谷幸夫)を見たときです。でも中学校時代は卓球に明け暮れて、全国大会にも出ました。高校では普通に勉強してましたね。それで大学で建築学科に入って、1年生から安藤事務所でバイトしていました。
―どういう経緯でそういうことになったんですか。
長田:高松伸の事務所でバイトしていた先輩が「福井でただ勉強だけしてたらだめだ」というものですから。「オープンデスク」といって、見習い学生のための机が用意されてるんです。薄給ですけど。いつも4、5人学生がいました。関西の学生は週1回通えますが、僕は福井だったんで、夏休みとか春休みのたびに行って、模型作りとか、ドローイングを描かせてもらいました。10mの絵を延々と描いたこともあります。―でも、有名な先生の事務所で学生の頃からすごい仕事を目の当たりにされて・・・・。長田:いや、もちろん有名でいらしたけど、まだ仕事の規模は今ほどではありませんでした。僕が入った頃は、大阪ではガレリア・アッカなどの商業施設が主でした。大学を卒業してスタッフとして入所したときには、公共建築を手がけられ始めていて、建物の規模も数十倍になってました。建坪1000㎡の規模から、いっきに何万㎡の仕事になっていった7年間を経験させてもらいました。時代もバブルでしたし・・・・。

―そして独立されたんですね。
長田:規模が大きいので、ひとたび仕事につくと4、5年かかります。ちょっと早いかな、もう少し何年かいようかなとは思ったけど、仕事に入るとやめられませんからね。次のチャンスは5年先になると思って。独立してからは、SDレビューなどのプロジェクトに入れていただけたりして、何とかやっています。

-そして、TPOのレコメで東京に進出されたわけですね。関西と関東での違いというのはありますか。
長田:関西では情報が仕事に直結しないんです。東京では建築ジャーナリズムなど、メディアの情報の評価が関西と違う。―情報が直結というと、具体的にはどういうことですか?
長田:雑誌などに作品が掲載されても関西では反応が鈍い。東京では、仕事に直結しなくても、とりあえず「見ましたよ」という声をかけられる。リアクションが早いですね。
―独立されて10年過ぎて、今回東京にも事務所を開かれましたね。
長田:去年からです。ほとんど連絡事務所ですが、ちょっと打ち合わせをする場所も必要になってきたし、今回のTPOレコメの「blocco」のあと、いくつか住宅をやることにもなっていますから。
―設計で個人的に心がけていることはありますか。
長田:シンプルでミニマルが一方にあるとすると、僕がやらなければならないと感じているのは、経験が多様で重層的な空間をつくることです。
「blocco」の十字プランにしても、全体をいっぺんに見られるわけではなく、全体の印象は、個々の住居を見て廻って、最後に組み立てられるものになっていると思います。
 見学していた人が内覧会で、「最初見た部屋を忘れてしまったので、また戻ったよ」とおっしゃっていましたが、基本的にはちょっと見ただけですぐに空間全体を把握できないように作ってあるんです(笑)。意図的にそう作っています。
見てすぐわかるような建築は作りたくないと思っています。建築の経験というのは、基本的には時間をともなって、ある程度の長いスパンをかけて行われるもの。実際、その部屋で生活するとか、住宅なら何年にもわたって住み続ける中でわかってくることがある。「シンプルな部屋の中でもいろんな経験は起こる」というのは片方ではわかるんだけど、僕はいかに飽きないように居住空間を作るかを心がけています。いい絵って、飽きないし簡単に再現できない。ディテールがどうなっていたかなど思い出せない。見てすぐまねできるなんてあまりいい絵じゃない。建築も再現性は遅れてやってくるものです。できるだけ咀嚼しながら、反芻しながら、自分がした経験を呼び戻していくような建築、ジワーと効いてくるような建築がいいな、と思います。
―これまで建物をひとくくりにして「コンセプトは?」とただ単純に質問を発してしまいがちな自分があったなと、改めて反省させられました。
長田:基本的には「コンセプトは何ですか」と聞いて、「コンセプトはこうです」という答えを聞いたら、実際の建築にそのコンセプトをいかにわかりやすく実現しているかという判断をしがちでしょう。でもコンセプトのために設計しているのではないし、建築のためにコンセプトがあるのであって、僕らを含めて、今の建築ジャーナリズムは逆転しているという危機感が僕にはあり、それはまずいなと感じています。逆にちゃんとやりたい。じーっとそこで空間を経験し、後から良さが湧き出てくるような建築を作りたい。建築というメディアは、言葉にできない、ある種の複雑さを引き受けて作っているものです。「kh」も狭小でありながら、流動的であるよう、きちんと考えて作っています。リーズナブルだけどリッチで、ある種の豊かさを感じてもらえると思っています。
本来僕は優柔不断で、ひとつのことに決めていくのはいやです。なんかの都合でつまづいたら、終わりというのでは困る。ある種の幅、多様さがないと、建築は長持ちしない。10年たって自分の建物を見に行って、それなりにそのときに考えたこと、味が染み出ているのがいい。建てたときが一番良くてあとはだめ、というのではしょうがないのではないでしょうか。
―今、そういう意味では時間を大切にする風潮は出てきていますよね。
長田:住宅の空間をモード化しているのが、気になります。ファッションのように短いサイクルだし。ある程度、流行に遅れていてもかまわないと思いますね。今回の「blocco」のように、左官を今頃やるというのもある意味遅れてる。コンクリートのラワン仕上げにしても既に遅れてる。今の先端は鉄板使いですから。僕は、周回遅れでいい。わかってやっていますから、何を言われても結構です。(笑)
―どうもありがとうございました。
長田 直之(ながたなおゆき)
1968年      愛知県生まれ
1990年      福井大学工学部建築学科卒業
1990-1994年  安藤忠雄建築研究所勤務
1994年      ICU共同設立
2002-2003年   文化庁新進芸術家海外留学制度研修によりフィレンツェ大学へ留学
主な作品
「邯鄲ハウス」、「Nishino Anex」、「Ig」、「Na」、「yh」、「Ca」、「TO」、「Sg」、「CUR」、「SHG」、「otto」。
受賞
1995,96,99年  SDレビュー入選
1999年     JCDデザイン賞優秀賞
2001年     北陸建築文化賞受賞
2004年     TPOレコメ2004 最優秀賞