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76-3 建築家紹介26 藤下高士

求められる独立したプロの立場

今月は、構造設計の藤下高士氏です。藤下氏には以前、ShinClub69 で「構造計算書偽造問題」について、お話を伺いました。今回は、ご自身の設計者としての歩みについてもお話しいただきました。
―前回の取材でいろいろお話しいただきましたが、掲載スペースが限られて心残りでした。その後耐震偽装事件の再発を防止するために、建築基準法や建築士法などの法律改正も行われましたが(3月31日閣議決定、公布1年以内に施行)、どのようにご覧になっていますか。
藤下:今回の改正で再発根絶とまでは行かないでしょうが、引き続き検討すべき問題としては、9月の国会で、「設備士、構造士の専門資格者の位置づけやピアチェック体制を第3セクターで作る」という話が出てくるでしょう。1年後、そういうものができてくれば、世の中ががらっと変わると思います。専門の「建築士」の資格には、我々構造技術者協会のいろんな提言が今まで反対されてきた経緯があります。
おおまかに言うと、今回、新たに「適合性判定機関」が1年後を目途として立ち上がりますが、2人1組で建物のチェックをおこないます。対象建築物はRC造で高さ20m超の特定建築物となります。判定員は「みなし公務員」になりますが、判定員の責任については明確になっていない問題点が指摘されています。最終責任者は知事となります。そこでは「建築構造士」が判定員として期待されています。
―確認検査機関が民間だから問題だというだけではなかったようですね。「ピアチェック」とは、どういうことですか。
藤下:ある構造設計者の仕事を、検査機関を通じて別の構造設計者がチェックするというものです。欧米では昔から行われていて、フランスでは保険会社がピアチェックを行っています。要するにプロがプロの仕事を評価する、という現実的な話です。プログラムで計算するだけではなく、その設計意図を理解できる人間によるプロのチェックが必要だということです。98年に確認検査を民間に開放したときにも要望があったのですが、結局民間の検査機関の確認検査員の資格には「審査経験が2年以上」という条件がついたので、行政OBでなければできない仕組みだったのです。つまり行政のやり方そのものを民間検査機関に引き継いでいったということですね。
 法律は現状に適応させようとすると、オブラートにくるんだように、当初の主旨がわからなくなってくる傾向があります。誰にでもできるような、どこにでも当てはまるようなことを規定すると、いらない規制ばかりが増える。法律で縛れば縛るほど、逃げ道を作る人は出てくるでしょう。それより、プロをプロとして評価する資格制度があれば、審査そのものも必要なくなるかもしれない。
―仕事をするには専門の資格が絶対必要になってくる、ということですか。
藤下:そうですよ。資格のない人はいずれ他人の資格を使うなど、地下にもぐって仕事をすることになる。設計図書にきちんとサインできない人に仕事をやらせていいのですか、ということになります。
「最低一級を絶対取りなさい」という世の中になるんです。意匠でも構造でも設計は難しいから、一級を取っていない人には仕事は任せられない、ということになってきます。
―藤下さんご自身について伺いたいのですが、どちらのお生まれですか。
藤下:岡山県です。中国山脈の山の中、横溝正史の『八つ墓村』の舞台になったような山深い里です。親父は林業、というか猟師、鉄砲打ちですね。平らなところがほとんどない土地でしょう。農業もままならないから長男以外はみな奉公に出る。分水嶺で鳥取、米子方面に出るんです。親父も鳥取に出ました。祖父の時代はまだ獲物がいたんですけど、親父の代にはいなくなりましたからね。ちなみに私も、東京に出てからクレー射撃をやっていました。秋田でいうマタギの家系なんですかね(笑)。
―すごい話ですね。
藤下:親父が自由業なものだから、私もサラリーマンの世界がわからなかった。高校時代まで課長と部長のどっちが偉いか知らなかった(笑)。
それが、お袋に「田舎にいても仕事はないし、お前は出来るから、世の中に挑戦してごらん」と勧められて、高校は郷里を出てお袋の実家のある静岡の工業高校に進みました。でも大学進学なんて考えず、就職しようと思っていたんですよ。ところがその工業高校で構造力学の授業を受けたら、これが面白かった。駅の近くの商店街でアーケードからとび出ている片持ち梁が、どうしてもっているのかわかって感心しました。世界がぱーっと広がったんですね。
 建築家って意匠の人なんか自己主張が強いでしょう。でも私は最初から構造の世界で生きていこうと思っていたので、「表に出る必要はない、縁の下の力持ちでいい」と思っていました。今は建物の技術が進歩して、プロジェクトが成立するかどうか構造設計者も意見を求められるようになりましたが、いまだに派手なことは嫌いです。
 昭和47年に大学を出てからは自分の思うとおりに仕事をしてきました。同級生はゼネコンやら一流設計事務所に入った人も多いけど、私は構造設計事務所に入り、しかも修行は4年と決めていました。その後は自分で独立しようと考えていました。ところが4年目、オイルショックがやってきて、省エネとか構造不況とか物価上昇で、世の中が急に不景気になり、今独立しても食っていけないという状況になってしまったんです。それでもうちょっと事務所で頑張ろう、とさらに4年いました。お世話になった鈴木建築設計事務所は実務を追及するところでね、パイオニアにはならない。でも地に足のついた仕事をしてきたと思っています。
―そこでのご縁が、今の辰につながっているんですね。
藤下:自分の思った通りの職業についている―それが私の誇りです。この職業になってよかったな、とつくづく思います。あと10年くらいは、一生懸命働きますが、今後それほど仕事量は増やせないと思いますし、将来は世の中の公益のために働こうという気になってきましたね。
この年になると、いろいろな相談を受けます。同年代の友人には会社のトップのような人もいます。彼らは、やたらに周囲に相談できないことも多くなる。社会の表舞台では活躍できるのはあと2,3年です。失敗はしたくないでしょう。だからいろいろな人の知恵を借りようとするものです。
そんなとき、私のように、どこの組織にも属さず、独立した立場を維持している人間は頼りにされるのです。構造設計者としての問題だけではありません。仕事そのものや家庭のことなどについてもです。そういう自由な立場の自分が、今とても心地よいですね。
―本日は、どうもありがとうございました。
949年  岡山県生まれ
1972年  日本大学理工学部建築学科卒業
1972年  鈴木建築設計事務所入社
1977年  藤下高士建築設計事務所設立
主な作品
IDEE ROOMS UEHARA  ほか多数。

 

75-3 建築家紹介25 多田脩二

フェイル・セーフ

多田脩二氏

 今月は、練馬集合住宅、T&K邸の構造設計を担当されている多田脩二氏にお話をうかがいました。
―多田さんは、2005年、優れた構造設計者に贈られる「松井源吾賞」を受賞されました(松井源吾賞は今回で終了)。同じくJSCA賞も受賞されていますが、受賞作品はどんな建物ですか。
多田:「中国木材 名古屋事業所」という木材会社の事務所です。プロジェクトそのものはコンペでした。120mm x 150mm x 3000mm の木材を一面に敷き並べ、それらにケーブルを通してプレストレスを導入することにより一体化するという新しい構法で、ばらばらのものを圧縮して、あたかも1枚の板のようにしているものです。仕上げ材、断熱材としても機能するものです。とても技術的に難しいものであるにも関わらず、工期も非常にタイトでしたが、施工会社、職人、設計者が一体となってさまざまな検証を得て竣工することが出来ました。
―構造設計を目指されたのはいつ頃からですか。
多田:学生のときは意匠デザインに興味がありましたが、ある本との出会いがあって、構造をやりたくなったのです。1990.11月号の建築文化の「建築の構造デザイン」という構造特集号です。その雑誌に日本を代表する怱々たる構造家、例えば木村俊彦先生とか川口衞先生、齋藤公男先生などが紹介されていました。構造の考え方によって大胆な建築を成立させていることを知って感銘を受けました。いずれの先生方も構造設計に対する思想を持っているのです。将来デザインを手がけるにしても、「構造を知っていると強いな」と感じてこの世界に飛び込みました。中に入ったら、どっぷりと構造の世界につかってしまいましたが(笑)。
―卒業後は、佐々木睦朗事務所に入所されました。
多田:スタッフは当初自分ひとりでした。先輩でいらした池田(昌弘)さんはスタッフというよりパートナーとして既に独立されていました。今思えば、本当に良かったのは、難易度の高い建築を担当させてもらい、佐々木先生にマンツ-マンで指導してもらったことです。ただし、怖いんですよ・・(笑)。人間としての生き方もですが、建築に対する設計の姿勢が厳しい。「構造設計というより建築そのものをどう考えるか」という根本的なことを実務を通して徹底的に教わりました。共に設計される意匠の方は伊東豊雄さんとか妹島和世さんとかでしょう。建築家がいろいろと考えることに対して、どのように向き合うかという姿勢がすごい。
―チャレンジ精神が旺盛な建築家の方ばかりですよね。
多田:むしろ建築家に対して佐々木先生の方がどんどん入り込んで提案していく。通常のように建築家が「こういうことは構造的にできますか?」と訊ねる問いにただ答えるだけでなく、さらに一歩踏み込んでいく感じです。もちろん建築家の考えを尊重しながらも、構造の合理性と独自の美学によって成立させます。言うのは簡単、でも実際にはとても難しい事です。
―スタッフは、ほんとに気が抜けないのでしょうね。
多田:当然毎日深夜まで働いていますし、休日もあまりない状態でした。せっかくの年末の休みも1年の疲れがどっとでて毎年よく高熱で倒れていました。佐々木事務所は5年制。毎年1人やめたら1人入る、というペースでしたが、結局9年おりました。
―そして2004年、事務所を設立なさったのですね。
多田:最初は仕事もほとんどなく、少し前まで大学の先輩でもある大塚眞吾さんの事務所を間借りさせてもらっていましたが、やっと最近、仕事がコンスタントにある状況になってきました。主なところで竣工したものは、一つの敷地に4人の建築家がコラボレートした玉川台のプロジェクトで、そのうちの若松均さんとみかんぐみの住宅、そして練馬集合住宅(施工:辰、Shin Club74掲載)などをやらせていただきました。
―練馬集合住宅は面白いピロティですね。
多田:基本的には中央のコアで水平力に抵抗する構造でSRC造としています。一見普通のピロティのように見えますが、周囲の鋼管柱は、160Φの外形に板厚16mmの厚いものをつかっています。基本的にこの鋼管柱は鉛直力のみの支持で良いのですが、万一予期しない規模の地震が起き、中央部のコアのコンクリートにひび割れなどが入り始めても、そのときに廻りの柱が曲げ抵抗して効き始めるという設計としています。
ちょっとした構造の提案をしつつも、クライアントに対しては何よりも安全が大事です。ただし、「絶対に壊れないものを作る」というのはある意味不可能です。建築基準法を満たす事は最低限の当然の事ですが、その法規もある仮定のもとで成立しています。少々予期しないことが起きても、「フェイル・セーフ」、二重の意味での安全性を確保ができればよいかと思います。余力をさらに持たせるとかそういうこともしていかないと―。
―住宅でも、大胆なデザインで構造設計の先生がアドバイスされる場面が多くなっていると聞きますが、最近ではどのような住宅が多いですか?
多田:基本的にローコスト住宅が大半で、その中でも木造とRCの壁式構造が多いです。今、RCの壁式といえども、建築家の提案される案は壁が少ないものや、立体的に複雑なもの、あきらかに地震時に建物がねじれ変形するような建物が多いです。それを成立させるためにはいろいろと工夫がいるし、それなりにコストがかかります。また基本的に、2階建ての木造住宅は意匠の設計者だけで設計は可能ですが、なるべく壁や柱をなくすようなデザインや、床・梁を薄くしたいような仕事がきます。ただし壁が少なくなると、構造的に建物を成立させるために行うことがいろいろと出てきますし、手間もかかります。接合部が特に難しく、金物を使い始めると途端にコストがはね上がります。
―コストがあがることをご理解いただかないと大変ですね。
多田:構造躯体にコストがかかりすぎて再設計を行ったり、またコストばかり言って、陳腐な建物になってもつまらないですし・・・。
―先日着工したT&K邸では密実なコンクリートを打つため、工事部全体で総合コンクリートサービスの岩瀬氏を招き、改めて勉強会を開きました。
多田:前述したようなRCの壁式の設計を行う場合は、壁をある程度厚くする必要があります。しかし住宅には住宅のスケールがありますから、あまり逸脱しすぎるのも考えものです。そうなるとコンクリートそのものの強さを引き出す必要性が出てきます。
またRCの設計を行って現場を訪れる度に、いつもフラストレーションがたまります。鉄筋の配筋のひどさやかぶりのとれてないもの、設備配管の多さ、ジャブジャブのスランプによる打設。それにもかかわらずジャンカやヘアクラックなどなど・・・。今一度ひび割れない、しっかりとしたコンクリートをどうやったら打てるかを追求してもらいたいですね。そういうニーズにしっかりと応えてくれれば、コストも理解されてくる。また、職人さんたちのレベルを再び引き上げるいい機会になるのではないかと思いますね。
―どうもありがとうございました。
1969年  愛媛県生まれ
1992年  日本大学理工学部建築学科卒業
1995年  日本大学大学院修士課程修了
1995年  佐々木睦朗構造計画研究所入社
2004年  多田脩二構造設計事務所設立
主な作品
中国木材 名古屋事業所(設計:福島加津也+冨永祥子建築設計事務所)
主な受賞
2005年  第15回松井源吾賞受賞
                      第16回 JSCA賞受賞

74-3 建築家紹介24 若松均/若松均建築設計事務所

オープンマインド

今月は、練馬の集合住宅を設計された若松均氏にお話を伺いました。
―お仕事を拝見すると、ピロティをよく採用されているのかなと思ったのですが。
若松:特にそんなことはないですが、この練馬と、今事務所がある深沢の集合住宅(fw.bldg)はピロティですね。どちらも駐車スペースを兼ねた大きなエントランスホールの役目を担っています。公道に面しているので、居住者だけのスペースではなく、外にオープンな場所になっています。
特に今回の場合、角地であり反対側も道に面していますので、通り抜けができるパブリックな「道」になっています。オープンスペースとして居住者だけの広場をつくるよりは道路と連結した共用部を道の延長として捉えられたらと・・・。
特に外階段や共用廊下も「道」のように扱おうと考えました。あと密集地に集合住宅を建てる場合、グランドレベルより少し高い方が居住スペースを快適にできるということもあります。
―大規模開発について、森ビルの社長が語っている記事を読みましたが、すべての地域で当てはまるものではありませんものね。
若松:街の中では、少し小さなものを点在していくことで、時間をかけてだんだん成熟していくと云うか、周りと馴染むようなものにしていく、という方法もあると思います。 コンペの時にもそういう話をさせてもらいました。練馬のこのあたりは、駅からとても近いのに下町のような界隈性があって、路地とかよしずがとても多い場所です。
―若松さんのご出身はどちらですか?
若松:東京です。ほとんどずっと世田谷の深沢。東深沢小、中学校、都立の青山高校。
―建築家になろうと思われたのはいつごろですか?
若松:その職業が何かも知らなかったけれども、将来「建築家」と言い始めたのは早かったです。小学校の頃かもしれない。 実家が建材業、ガラスとサッシの仕事をしていました。工場と店舗と家が隣り合った環境で育ちました。「建物」がいつも身近にあった。大工さんと建築家の区別もつかなかったと思いますが。
―それで東工大に入られた訳ですが、若い頃は何かスポーツとかはやってらっしゃったんですか?
若松:高校のときは、水泳部。大学ではヨット部。体育会のキャプテンでした。
―ヨットは、すごくタフな競技ですよね。体力に自身があるとか、人を使うこととか得意ではないですか?
若松:人を使うのはあんまり関係ないんじゃないかなあ(笑。隣に座っている女性担当スタッフに確認する。)
大学卒業後は設計事務所に4年勤めたあと大学の研究室で同期だった奥山信一氏と事務所を設立しました。親戚の集合住宅をやることになって、その後、約10年間いっしょにやってきました。
そういえば、その最初の集合住宅も高床になっていますね。
―お仕事は集合住宅と個人住宅が多かったのですか?
若松:きっかけは共同住宅でしたが、個人住宅がほとんどでした。集合住宅はここ数年多くなってきました。
―住宅をつくる上で頭においていらっしゃることは?
若松:まず、設計を始める前に現場はよく見るようにしています。そんなに大きな規模のものは少ないので、なるべく広がりをもたせたいと思っています。行き止まりのない感じ。あまりつくり込まないほうがいいかとは考えています。
―RC造が多いのですか?
若松:始めの頃は、ほとんど木造です。現在は、特にどの構造が多いというのはないです。
―ご実家がサッシの会社だから、施工部分での選択など、設計者としては得意でしょうね。
若松:今の事務所を建て替えるまで工場もやっていましたので、サッシとガラス工事に関しては、自分で設計したものはほぼ全て、他の設計者のもずいぶんやらせてもらいました。コスト面での選択とか決定の時期とかは、得意というか今までの経験が影響していると思います。
―現在、事務所のスタッフは何人ですか?
若松:7人。男4人、女3人です。仕事は知人の紹介や、雑誌やネットを通じて、あと最近はコンペも増えています。
―学校の先生としてのお仕事はいかがですか?
若松:武蔵野美術大学で教えていて、今回の練馬の敷地も学生の課題にしています。更地のときに学生連れてきたんですよ。週1日なので、僕自身もいい刺激になります。
―集合住宅はこうあるべき、というものがあったらお聞かせください。
若松:こうあるべきというか、その都度、その敷地、周辺の環境をよくみて、検討していこうとしています。
集合住宅は、一戸の住戸の大きさはだいたい同じなので、その組み合わせに依って建物のボリュームやかたちが大きく変わってきます。繋げれば大きな規模の建物になるし、今回のように2棟に分けて周囲の大きさに合わせることもできる。
残った部分をどう考えるかも大切だと思います。2戸からはじまり、公団のように百戸規模のもある。数に依って周囲に与える影響も変わるし、どこに重点を置くかずいぶん違ってきます。この場所が今後住み続けていく中で、街にどう根付いていくか楽しみです。
―どうもありがとうございました。
1960年  東京都生まれ
1985年  東京工業大学工学部建築学科卒業
1989年  奥山信一とDESK5設計を共同設立
1999年  若松均建築設計事務所設立、現在に至る
武蔵野美術大学非常勤講師
主な作品
「青葉台の共同住宅」「深沢の住宅」「石神井公園の住宅」「奥蓼科のいえ」「玉川台プロジェクト」「本町田の住宅」「柿の木坂の住宅」「吉祥寺通りの住宅」「館山海岸の住宅」「本郷台の住宅」「曽谷の住宅」「小村井の家」「ネオパス目白」「F/ Flat」「fw.bldg」「nh.bldg」など
主な受賞
1995年 東京建築士会住宅建築賞受賞

62-3 建築家紹介13 鈴木基紀/空間設計社

「部分と全体 ~丁稚時代に学んだこと」

 

今月は、Forgedの設計者鈴木基紀氏に話を伺いました。
弊社ではほかに田園調布のM-Houseの施工もさせていただいています。
―鈴木先生はどのように建築の設計に取り組んでいますか。
鈴木:なにしろ与えられた設計条件に身を委ね、最初は手探り状態です。デザインは狙うものではなく、プロセスの中から自ずと姿を現してくるものだと考えます。混沌の中に仮説を積み上げて、徐々に姿を現す「部分と全体」を行き来して両者の関係を図ります。又、別の視点ですが、施主とのやり取りが深まってくると次第に「施主になりきる」ことができるようになります。大袈裟に言えば「憑依」かな..。最終的には「部分と全体の関係」に、施主らしさ、施主の「居住まい」が滲み出れば、それが一番だと考えます。
―「部分と全体」を行き来するというと・・?
鈴木:ある「部分」を考えている時に、他の「部分」が刺激されてアクティブになるんです。そして連鎖反応的にアクティブな「部分」が次第に増えてきます。互いに呼び合う関係だったり、対立する関係だったり様々ですが、ザワザワと賑やかになるんです。そうこうするうちに「部分」が集合し始め、「全体」の姿がおぼろげに見えてきます。「全体」像は刻々と変化しますが、ある時点で、1番目の「全体」像を決めてしまいます。そして、その「全体」像に基づき、それぞれの「部分」を見直します。整理・統合することもあります。施主の要望はこの作業に取り込みます。作業を続けると2番目の新しい「全体」像が見えてきます。そこでまた、それぞれの「部分」を見直し、部分の再編成を試みて3番目の「全体」像を作り上げます。こんな感じで行き来するわけです。
又、例えばA案とB案があるとする。あるテーマにおいて、B案で良くない点がA案では良い。ではA案の良い点をB案に取り込みましょう..。別のテーマでは B案が実に魅力的。ではこれを A案に頂戴しましょう..。つまりは「いいところ取り」ですね。そして、最終的に「どちらを選ぶか?」をより高い位置で判断できるようにする。つまり「アウフヘーベン(止揚)」ですね。最後には、好き嫌いを超え、どちらを選んでも良い、というところへ辿り着きます。
―アウフヘーベン、哲学用語ですね。ちょっと懐かしい言葉です。
鈴木:設計とはこういう「行きつ戻りつ」、又は試行錯誤の連続です。「部分と全体の関係」がいかに豊かで緊密であるか、が大事なんです。「関係性の美学」とでも言うのかな。作業を重ねていくうちに、だんだん全てが泡立つようにアクティブになってくる時期がやがて訪れます。あちこちで火花が飛び散るような感じかな。
―そういう確かな感覚があるんですね。
鈴木:はい、あります。そしてこの状態が、ちょっとした契機で一挙に収斂しはじめ「全体」像が鮮やかに焦点を結び始めます。
―それって、感動的な瞬間ですね。
鈴木:そう。なんとも言いがたい悦びです。「至福の瞬間」ですね。建築の仕事は近隣問題やら、法律、工事予算など、うんざりすることが多いけど、この悦びがあるからこそ続けられる(笑)。僕は、このような設計作法を鈴木恂先生のもとで徹底的に叩き込まれました。
―鈴木さんは早稲田大学のご出身で、卒業後、鈴木恂先生のアトリエに入られたのですね。弊社では「スタジオエビス」の改修工事を時々やらせていただいています。
鈴木:僕は就職浪人。1年間待ちました。その間、海外を旅行しましたが、帰ってきたらタイミング良く空きができて入所できました。当時、恂先生のアトリエは神宮前の古い洋館にあり、天井の高い製図室に畳1枚の大きさの製図板とT定規を頂戴しました。ピンと空気の張りつめた雰囲気でしたね。アトリエでは7年間修行しました。
―設計事務所での修行って、どういう感じですか。
鈴木:例えば、「この階段のあり方をエスキスしなさい」とテーマを与えられる。ところが「何をどう考えて良いのか」が分からない。先輩所員にヒントをもらいながら1週間くらい悩んで、先生にプレゼン、つまり発表しなくてはならない。それが前日になっても考えがまとまらない。そして当日、先生を前にしても当然話は弾まない。失意のドン底…そして先生の話が始まる。コチンコチンの塊が徐々に解きほぐされ、縦糸と横糸を紡ぐような先生の話にはワクワクしたものです。アトリエでの修行はこの「ドン底感覚」と「ワクワク感覚」の繰り返しでしたが、とても贅沢なレクチャーでした。「部分と全体の関係」をようやくひとりで整理出来る様になったのは、独立する頃でしたね。
早稲田建築については、あのコルビジェの弟子だった吉阪隆正先生から、鈴木恂、象設計集団という2つの系譜が派生して、デザインは違えどもいずれもこってりと議論を戦わせる設計作法が継承されました。
―昨年末、吉阪先生の回顧展がありましたね。
鈴木:展覧会の建物は「八王子セミナーハウス」でしたが、デザインの完成度の高さ・凄みを目の当たりにして、久し振りに身震いしましたね。「部分と全体の関係」が見事に出来上がっている。例えば丹下さんの代々木も、ほんとにすごいですよね。一時期までの建築家は間違いなく、「部分と全体の関係」を最大の関心事として設計している。そういうことが最近は影をひそめているように思います。
―普通の人には、建物を見ただけではなかなか判断できないかと思いますが、建築をほんとにわかって楽しむ贅沢はいいですね。
鈴木:そう、とても贅沢。気持ちが高揚します。欧米の家庭には、建築の全集が並んでいることが珍しくない。あちらでは、建築は教養、文化なんでしょうね。田園調布の施主Mさん(アメリカ人)も、F・L・ライトを相当勉強されていましたね。ライトの話題はそう頻繁に出ませんでしたが、結果的にライトのイメージがいつの間にか入り込んできました。無理をせず自然なかたちで施主の指向が建物に反映されたとしたら、設計者としては本当にうれしいですね。
―設計者の「コミュニケーション能力」などと一言で片付けてしまっては失礼ですね。奥が深い。
鈴木:怖さはありますね。何千万円という財産である住宅を作るわけだし、施主は当然のことながら本気ですから、裏目に出ると、つらいことになる。
―そういう意味では、建築家の地位が、日本ではまだまだ欧米のように高くないようですね。職能としても、要求される能力の割には、ほかの業界に比べて安くみられているような気がして・・。
鈴木:間違いなく言えることは、欧米に比べ、設計のライセンスホルダーが圧倒的に多いということです。誰も彼もが財産という建築を作る資格を持っている訳です。欧米におけるレジスタード・アーキテクトの数はとても少ない。日本における建築家の職能を考えると、この問題はとても深刻ですね。
―鈴木さん自身は今、若い方に何か伝えていくことをなさっていますか。
鈴木:3年前から「ものつくり大学」のインターンシップ制度で、学生を受け入れています。事務所に来て研修することで単位が取れるのです。学生はまだ何も出来ないわけですから、預かるこちらもつらいんですが(笑)、さきほど話した「悦びの瞬間」「ワクワク感覚」を感じ取ってくれれば良いな、と思います。Forgedの模型も学生達に作ってもらいました。今年卒業した子がこの春から事務所に通っています。
―今後も若い人が建築をやってよかったと思える環境がほしいものです。今日はどうありがとうございました。
鈴木基紀(すずきもとき)
北海道旭川市生まれ
1979 早稲田大学理工学部建築学科卒業後、ヨーロッパ、北アフリカ放浪
1980 建築家・鈴木恂に師事(丁稚の時代)
1986 独立
1987 (有)空間設計社 設立 現在に至る
主な仕事
1992年 IZVI
1994年 IZCO
1995年 海の家、クラブハウス(喜界島)
1998年 DOME
受賞
1978 第13回 セントラル硝子国際設計競技  入賞
1996 熊本県 アートポリスデザインコンペ   入賞
http://home.s07.itscom.net/motoki