トップ4項目でご紹介しています。全ての記事をご覧になりたい方はバックナンバーのPDFをご参照ください。

65-3 建築家紹介16 荒木毅/荒木毅建築事務所

「コートハウス」

 

 今月は、荒木毅さんの登場です。現在、辰では新宿区でRC住宅を施工中、まもなくお引渡です。
―荒木さんの住宅にはCHシリーズがありますが、プロトタイプをめざしていらっしゃるのですか。
荒木:特に意図しているわけではないですが、狭い敷地や、廻りが密集して家が建て込んでいるという都市型住宅に与えられた条件を考えれば、「コートハウス」という選択はやはり一つ有効な回答だと考えています。
建てるときに南側に庭があって、敷地の北側に建物を配置するという、これまでのごく普通の方法では、都心の限られた敷地では庭先に隣の家の裏側部分があって見た目も悪いし、プライバシーも確保できないですよね。コートハウスにすることで、光も、より多く取り入れることが出来ます。本体以外の躯体は平屋として、南北2棟配置するのが基本。
「南棟」は北勾配として軒を下げ、高窓を設けて、隣家に邪魔されること無く太陽光を取入れる。
「北棟」は2層として、「中庭」を介して十分太陽光を取込む。
「階段」は南から北に上る直階段として西方向からの太陽光の差込を邪魔しないようにする。
「東棟」は平屋として、東方向から中庭への太陽光の差込を邪魔しない。

 CHシリーズとしているのは、ある程度の条件がこれらにあった場合、つまり共通のスタイルを持ったものについて、後から番号を与えているだけで、ゆるいプロトタイプといえるかもしれないですが、特に積極的に作ることを意図してはいません。
―今どのくらいの件数ですか?
荒木:今10番まで来ているけど実現しなかったもの2つが欠番かな。
―木造がほとんどですか。
荒木:そうですね。やはり、ローコストで建てたいというお客様は多いですから。
―HPを拝見すると、「ある価値基準の編の目を通過していないと言うことは、未来を予見する様な希少な内容が存在する可能性も、そこにはあるのではないか」とありましたが、インターネットも積極的に利用なさっているようですね。
荒木:HPだけでなくブログもやっています。現場情報の更新や日記などで、タイトルは「今日の事務所」(笑)。そっちの方が人気あるかな。忙しいときはなかなか更新できないけどね。
僕の場合、ごく普通のご夫婦が建てたいという家の設計が多いですよ。僕の作品の掲載雑誌を見て、電話でご相談があってというパターンが多いですね。
―最近は都心でデザイン性のある機能的な小さな住宅を提供する新しい動きがありますが、大きめの敷地を細分化することに対し、ただの「ミニ開発」という批判もあったりするじゃないですか。
荒木:狭小住宅といわれても都心ではしょうがないでしょうね。まとめて設計してゆければいいんですけどね。以前、世田谷の羽根木公園の近くで僕と2人の女性建築家、計3人の設計者でほぼ同時期に隣接する住宅を設計する機会があって、それぞれが建物の間の空間を意識し、光を反射する壁にして隣の家の採光に配慮したり、avementや植栽を統一したりしたことがありました。なかなかそういう機会はないですけどね。
―施工もまとまってくれると、コストが下げられるので、施工会社も仕事がしやすいという面がありますね。
荒木:小さな敷地というのも面白いものですよ。施主がもともと持っていた考え方を1度チャラにしてあげて、もっと一つの家族としてのあり方や場所を充実させることを提案する。そんなに大きな空間ではなく、適度な広さがあればいい。子供の個室は誰だってほしいけれど、そこで何をするのかをじっくり考えていけば、閉じこもるような部屋を用意するより、家族皆で過ごすこと、それぞれの気配が感じられる空間が効果的です。
ただ、設計する側としては40代後半になってきて、仕事の密度もだいぶ濃くなってきたせいで、何かとコストが上がりがちですね(笑)。快適さについても世間の要求レベルが高くなって、床暖房・ペアガラスは当たり前の世界になってきたから、予算内に収めるのが大変です。
―事務所は女性スタッフが多いのですね。
荒木:今正社員4人中3人が女性です。長年勤めてくれていた槻岡佑三子が秋に独立して同じ事務所内にいます。女性は真面目で細やか、助かります。でもあまり女性に囲まれてもどうかと思いますので、今度男性を一人入所させました。
―影響を受けた建築家の方はいらっしゃいますか。
荒木:やはり、事務所に勤めさせていただいた、アントニン・レーモンド氏でしょうね(Antonin Raymond 1988-1976)
戦後、日本で活躍したモダニストの一人で、本当に空間を知っている方だと思います。例えば、出窓一つにしても日本人の美意識じゃあり得ない考え方をされています。形式に陥っておらず、かといって装飾的でもなく、ある意味プリミティブな部分を残しているデザインなのです。日本人の傾向としてよくある、だんだんとモノが形骸化して薄っぺらくなったりする部分がないんですね。
それから、僕の親父も設計士だったものですから、絵が好き、美術好きという性格は子供の頃からのものですね。ただ、学校では数学や生物の方向も考えていたんですけどね。
―事務所は早稲田にありますが、ご出身は北海道で、北大でいらっしゃいますね。
荒木:親元から飛び出したいという思いがあって。それから大学の先輩がまだ一人もいない事務所に勤めたいとも思い、東京に出てきました。もう20年以上も前ですが。
―今後のご予定は?
荒木:そうですね、今回のようにたまにRC造をやると新鮮でいいですよ。
木造の工務店さん、大工さんとの仕事は、だらだら続くというか、裁量を現場任せにすることも結構ありますが、今回辰さんとRC造の仕事をして、質疑応答などが細かくきちんとしているので感心しました。
それから、規模ももう少し大きいものをやってみたいですね。ローコスト住宅や狭小住宅を専門にしているわけではありませんからね(笑)。豪邸もやりたいですよ。
―どうもありがとうございました。
1957年  北海道札幌市生まれ
1981年 北海道大学工学部建築工学科卒
1983年 同大学大学院工学研究科修了
㈱レーモンド設計事務所勤務
1989年 ㈱アーキテクトファイブ勤務
1990年 ㈲アレフアーキテクツ開設
2000年 ㈲荒木毅建築事務所に改称・主宰
主な作品
普通の家、Beams、屏風浦の家、CHシリーズ、Y’s Hourse(共同住宅)
関原の家(リモデリング)、ほか

51-3  建築家紹介02 北山恒/architectureWORKSHOP

「建築家という仕事 」

―今回は「集合住宅 20K」を設計された北山恒氏にお話を伺います。

北山さんの設計は毎回新しい提案が盛り込まれて、一歩先を行っている感じがしますね。
 僕は、建築はすべて「特殊解」だと思っています。どうでもいいようなものは建てたくない。設計事務所が設計するとはそういうことです。どこでも同じマンションを建てるというのは、間違っていると思いますね。その辺のことを、デベロッパーやユーザー、マーケットも気がつき始めていて、これから成熟した社会になると、「建築家」は非常に重要な仕事になってくると思う。巨大再開発をするのはエンジニアの仕事です。大きな都市建築は「合目的的」であり、それをやる人たちは技術者であればいいと思う。設計事務所は、大きな会社組織でなくていい、スタッフ10人以下で、たくさんの仕事はやらない、というのが理想でしょうね。ではどこに設計事務所の仕事があるのか、というと、都市を大きな「海」と考えてみればいい。そこに巨大再開発という「島」がいくつか浮かんでいる。大事なのは、その周りの多様で猥雑な「海」の部分。そこに建築家の仕事がある。若い人たちには、そこでやらなければならない仕事がたくさんある、と僕は常々話しています。その多様性の中で変えていかなくてはならない部分があるということです。
―北山さんは横浜国大でずっと教えていらっしゃいます。
 今年は、横浜国大、東工大、芸大、日本女子大で授業を持っています。4つは多いですね(笑)。お世話になった先生からの話でお引受けしていますが来年は2つに減らしたいと思っています。
―今、学校で教えるということは、実際に現場で仕事をしている人でないと無理ではないかと見ていて思います。
 建築の解答は数学の解答と違います。もっと多様なもの。現場にいる人でないとわからない部分は多いですよ。例えばテニスをすると考えましょう。ラケットとボールがあればできる。でもまったくやったことのない人は、始めはとても打ち合うまでは行かない。複雑なこと、例えばラケットの面をつくることだったり、筋力だったり、ガットの張りだったり、それらを瞬時に解けるようになったときに初めて出来るわけ。建築も同じように、出来上がったものを見れば素人でもその良し悪しは瞬時にわかる。でもそれを作ることが出来るようになるためには、すごく多様な事を一瞬で判断して多面的に解決する能力が求められる。構造、ディテール、寸法、マテリアル。一気にそういうものを見ていく。いずれも大事な事で、それは経験して体の中で憶えることと言ってもいい。建築を作っていくということはロジックだけではない、運動選手と似たところがあります。イチローだって3割をキープするには、瞬間的にすごい判断を絶えずしている。そこにいくまでのことがあるわけです。
―北山さんは、建築家とはどういう仕事だと考えますか。
 僕は、「目に見えないものを扱っている」と思います。空間、関係性、人間そのもの、生活、生き方さえもデザインするのが建築家だと思う。メディアはつい目に見える形態だけで話をしてしまう。それは結果でしかない。ほんとは作っていくプロセスの中で考えていくことに意味がある。それなのに「建築の情報」というと、すぐに見える方の話から入っていく。建築の評価が、逆の方向から入っていく。目に見えない建築のあり方から考えていく方が重要だと考えます。作っていくプロセスの中で合理性がないものは、「こちらの方が格好いい」とか「気持ちがいいだろう」とか言われても切り捨てています。「快適」ということ一つとっても、それは数値化できるものではない。その人自身の問題であり「心の豊かさ」はそんなにイージーなものではないですよ。
「当たり前」というのは、我々の記憶とか習慣の中でわかっていることであって、僕は「新しい当たり前」を作っていきたいと考えている。「誰もが共感すること=当たり前」だとすると、それはある意味で「束縛されている」ことと同じです。例えば旅行してみればすぐわかる。その土地で「当たり前」のことが異邦人にとっては、とても不思議なことであったりする。我々の「当たり前」なんて、非常にあいまいで不確かなものにすぎない。それなら僕は「新しい当たり前」を作っていきたいと考える。そのためには、どうやってその「共感」を発見するか。我々の社会の問題を考えながら、新しいことを考えていかなくてはならない。アイデンティティがあって、ちゃんとプライドもあるものでなくてはならない。情けないものではなくてね。建築とはそういうことだと思います。今回は集合住宅でしたが、学校や病院などの公共建築でも、まさにそういう問題が顕在化している。僕は、以前都立戸山高校の設計を芦原太郎さんと共同で依頼されて、途中で降ろされたことがあります。我々は新しい自由な学校、生徒が入ってよかったと思えるような学校がいいと思っていた。そのためにソフトウェアから考えて、プランを立てていったけれども、学校の教師、都の職員たちに内容について理解してもらえず「畳の部屋」を注文したのに「板の間」を設計してくるようなとんでもない設計士だと言われました。日本の教育空間については、非常に閉じた状況を感じています。施主は役所の人ではない、「未来の子供たち」だと言いたいですね。建築家は、社会のソフトウェアを作っていくのだという気持ちでなくてはならないと思う。最近、そういう若い人が少なくなった。建築がファッションになってしまってはだめです。東京という市街地は今後も変わらざるを得ない。次の時代に残るものを仕事としていきたいですね。
―本日はどうもありがとうございました。
1950年  香川県生まれ
1976年  横浜国立大学建築学科卒業
1978年  ワークショップ設立(木下道郎、谷内田章夫と共同主宰)
1980年  横浜国立大学大学院修士課程終了
1987年  同大学専任講師
1995年  同大学助教授 architecture WORKSHOP 設立主宰
1996年 「HOUSE IN HOUSE」 で東京建築士会住宅建築賞受賞
1997年 「白石市立白石第二小学校」(芦原太郎と共同)で第17回建築学会東北建築賞作品賞、第38回BSC賞受賞  日本建築学会作品選奨 受賞
1998年   「Lime House」で東京建築士会住宅建築賞 受賞
2001年  「Z-House]で東京建築士会住宅建築賞 受賞
2004年  現在 横浜国立大学教授

64-3 建築家紹介15 木下道郎/木下一郎ワークショプ

「曖昧な空間が豊かさを生む」

木下道郎氏

 今月は、S邸の設計者木下道郎先生にご登場いただきます。弊社では2001年「BALCON」、2003年「二軒家アパートメント」などを施工させていただいています。
―先日三鷹のご自宅が完成したそうですね。
木下:(模型を見せながら)個人棟と家族棟を分けて真ん中にデッキがあって、部屋から部屋への移動はこの外部空間を通ることになって、雨が降るととても不便だけど、それを忘れてしまうくらい快適な空間です。ついお酒を飲みたくなってしまいます。
―ご家族の皆さんもご満足でしょう。
木下:うーん、でも僕のクライアントでこれほど文句を言ったのは、うちの奥さんくらいだよ(笑)。最初なかなかわかってもらえなかった。出来上がったものを見て、やっと満足してくれたんだな。
―例えば、それぞれの自分の部屋からトイレやバスに行くときは、一旦外部に出なきゃならないという不便ですか?
木下:それは理解してくれたけど、空間のトーンとかそういうところ。僕自身はあまりトーンとか雰囲気は重要ではなく、空間構成というところに興味があるわけで、たまたま木を使ったけど、それが真っ白い空間でも打ち放しでもよかった。住宅なら住む人に色づけしてもらえればいいんですよ。
―今「色づけ」とおっしゃったのですが、まさにそうですね。暮らすことをイメージするとき、私も色とかテイストというものが大事だったりして、なかなか構成まではわからないことがあります。
木下:そうそう、部屋の中に置くものがよければいい、ということもある。建築家の方がごてごてに補足しちゃっている場合もあって、そういう建物もあっていいとは思うけど、僕はシンプルに作って住む人がいろんな色をつけてくれればいいと考えていますね。
―建主さんが建築家の先生に何をもって依頼するのかは大変だと思うんですよ。お話が成立するまでの信頼関係が重要ですね。
木下:僕の場合、今回のS邸もそうなんだけど、デザイナーというか、自分のテイストを持っているクライアントが多いんですよ。僕のニュートラルな部分を理解してくれて「建築、頼むよ」という感じで話がきますね。だから、三鷹の自宅と比べるとS邸はかなり違ったデザインでしょう。僕がどこに一番興味があるかというと、2階の北側の階段部分。土間立体縁側というイメージ。こういう緩衝帯が入っていて、お風呂があったり、階段があったり、植物があったり、といろんな可能性が考えられる。もう一つが1階のオレンジ色の入口の中の土間空間。外と直接つながっていて、通り庭みたいになっている。扉を開けると外の空間、閉めると中の空間。そういう曖昧なところに一番気持ちが入りますね。
―木下さんのご出身は関西ですが、町屋に見られるような、そういう文化というか感覚を継承されているのでは、と考えるのは短絡的ですかね。
木下:寒いところで育った人は曖昧な空間なんか作ってはいられない、しっかり閉じて寒さから身を守ろうということになるかもしれませんね。そういう意味じゃ、僕は、若い頃から車はジムニーで、屋根もすっかりオープンに開け放して乗っていたし、レストランなんかも外で食べるのが好きだしね。さすがに最近はオープンカーではないけどね。
-今回この北側の部分を「閾(しきい)」と呼んでいらっしゃいますが、どういう意味でしょうか。
木下:山本理顕さんなんかも使っている言葉ですが、「結び」の領域のことなんです。Aという領域とBという領域の両方に属していて、両側にある装置を閉じたり開いたりしながら、AにもなるしBにもなるし、AでもBでもなくなる。どこかあいまいな「こうもり」空間ですね。建築家が登場するより前に日本人が暮らしの中で培ってきた文化であり、縁側とか濡れ縁とか、そういう空間をうまく使いながら、我々は豊かな文化を創ってきたわけです。
それなのに、都市が過密になり、また西洋から導入された集合住宅の形式に染まってしまって、そういう部分が欠落してしまった。西洋では空間の大きさが違うから、部屋はたくさん作って、ちゃんと区切るんですね。朝食を食べる部屋と夕食を食べる部屋まで分かれている場合もある。日本はちゃぶ台という装置を置いたら飯を食うところで、布団を敷いたら寝るところ。それが西洋に追いつくために、そういうフレキシビリティはまずいということになったんだね。結局2LDK、3LDKという住宅に画一化されて、それでは満足できない人々が出てきてしまった。僕は、日本人が忘れてしまった曖昧な空間の上手な使い方を取り戻す手助けをできればいいなと思っているんですよ。
-「もっと頭を使って暮らしてみようよ」と言われている気がします。
木下:人間モデルで考えるのなら、工業化社会で求められる「お父さんはサラリーマン、お母さんが専業主婦、子供は2人」という標準モデルに従って、皆同じものを得て同じような充足感をこれまで味わっていた。やっとそこから抜け出して人間の多様性を認められる時代が来たと思いますね。標準モデルには当てはまらない人々、例えば結婚しない人、男二人のカップル、そんな人たちも収められる器を用意したい。そこから何か文化が生まれる気がします。皆同じというのは、もういやだね。
―「二軒家アパートメント」が竣工したときに、「住む人がどんな使い方をしてくれるのか楽しみだ」とおっしゃっていましたね。
木下:そう、今僕の事務所も入っていますが、皆さんうまく使ってくださってますね。オーナーのTさんが自分のペントハウスに住民を集めてパーティを開いてくれましてね。インテリアデザイナーの藤原さんや、オーストラリアから東大に研修に来ている建築家、皆さん、気に入ってくれているみたいですよ。
―羨ましいですね。自分の世界を持っている方が住んでいる共同住宅。屋上のペントハウスでパーティ、楽しいでしょうね。
木下:最近2部屋入れ替えがあったんですが、応募者の数がすごくて面接をやったそうです。最近集合住宅が供給過剰気味で、「デザイナーズマンション」も一時ほど行列ができないとは聞いていましたので、そういう中で評価を頂いたのはうれしいことです。喜んでくれるクライアントがいたらそれが一番。次につなげてくれるご縁が生まれます。
 だから一つ一つ失敗できない。それには常に新しい提案を自分で考えていかなくてはならない。受けたからまた同じ、というわけにはいかないからね。建築というのは、いろんな可能性をさらっと受け止めてくれるものがいいですよ。一人の人間だって未来永劫変わらないということはないじゃないですか。人生何が起こるかわからない。僕も第一志望を落ちて北山、谷内田と会って、ゼネコンだとか大手設計事務所の選択肢をまったく考えず、ここまできました。あまりにも的確な人生設計しちゃうより、深く未来を考えない方が思わぬ展開をするね。
―ほんとにそうですね。どうもありがとうございました。
木下道郎(きのしたみちろう)
1951年  兵庫県神戸市生まれ
1975年 横浜国立大学建築学科卒
1978年 同大学院修士課程を経て共同でワークショップ設立
1981年 株式会社ワークショップ代表取締役(共同)
1995年 有限会社木下道郎ワークショップ設立
受賞 (ワークショップとして)
1986 SDレビュー入賞:「ハートランド」
1987 第2回UD賞:「ハートランド」
1993 吉岡賞:「保谷本町のクリニック」
1994 第10回東京建築士会住宅賞:「立川の家」
1994 ディスプレイ産業奨励賞:「横浜市場」

 

 

50-3 建築家紹介01 武松幸治 E.P.A環境変換装置建築研究所

「建築家とアーティスト」

第1回にご登場いただく建築家は、㈲E.P.A.環境変換装置建築研究所の武松幸治氏です。「龍雲院」で平成7年東京都建築士会の住宅建築賞を受賞されています。このプロジェクトは五感を総動員し自然を観賞するというアジアの姿勢を現在の造形と空間に結びつけることがテーマでした。また弊社施工の「トランスビル」は、都市の革新的なオフィスを実現したものです。弊社では他にも「瀬田の家」「深沢の家」「代田の家」「南麻布の家」そして先月完成した「都立大の家」など多数施工しています。

―「都立大の家」、斬新なデザインで社内でも見学会をさせていただきました。

武松:設計をするときは、デザインはもちろんですが、敷地条件や法規制をクリアしながら最大限のボリュームを使い、「どうやって最適な環境を提供するか」を考えます。それは多分他の建築家の方と同じです。デザインは、求められる機能や条件で明確になります。今回は方向性が決まったので、変更はほとんどなかったですね。

―事務所の名前にも表されているように武松さんは、エコロジーにこだわりのある建物づくりをしています。

武松:事務所を立ち上げたときは、まだエコロジーが世間に認知されていない時期で、オゾン層破壊などに対してある種の危機感を持って「自給自足型」の建築を目指し、「環境を変換する装置としての建築」を提案していました。ところがエコロジーが注目されるにつれ、ビジネスばかりが強調されてきて、自分としては一時期そのような動きに違和感を覚え、個人的に建物を依頼された方に発信し続けてきました。辰で施工した「トランスビル」も、以前のオフィスと比べ坪数は広くなっているのに、光熱費のランニングコストが40%から60%ダウンしています。ハニカムガラスの外壁で、夏は光をシャットアウトし、冬は採光を十二分に取る、冷暖房費を節約する状況を作り出しています。

―数字としても実証されているわけですね。

武松:現在、福島の東白河郷に完全自給型の農家を計画しています。オール電化ですが太陽電池のみ。飲料水は地下水で、トイレなどの生活用水や断熱のための屋根の冷却水は雨水を利用します。雨水を受けるのに効率の良いHPシェル(フライブルグのパビリオンで有名)の屋根を採用しています。オーナーは都会住まいの50代の方ですが、リタイヤしたあと、第二の人生は農業をやろうとしています。田舎暮らし的なわらぶき屋根の家という案もあったのですが、都心で暮らし、ブロードバンドでインターネットも楽しんでいる―そういう人のリクエストが、実際のトラクターのサイズから、どこで収穫物を乾燥するか、保存はどうするかなど、かなり具体的なわけです。「住宅は最小限、納屋スペースの上にワンルームで広々と使えればいい」ということで、機能的な形態の家になりました。

―新しいスタイルの田舎暮らし、出来上がりが楽しみですね。

―武松さんは、青森の伝統工芸「ブナコ」を使った照明や、MDFの積層面を見せた3次元加工の優れた家具もデザインされています。

武松:最近は特注でソファなど作ることが多いですね。建物に合う家具がなかなかないし、入荷に時間がかかったり、良いデザインの物はサイズオーバーだったりする。リビング廻りはいろいろなリクエストが出てきます。施主の要望に合う形態の家具を設計しています。ただ商品化のための家具デザインとなると、そう簡単にはデザインできないですね。むしろ「ブナコの照明」や「MDFの家具」などは、守りたい技術があってそれを何とか維持できないかと、職人やデザイナーとの共同作業で出来たものなのです。

―ところで、武松さんは現代美術の展覧会の会場構成など、海外の著名芸術家の方とのお仕事も多いですね。

武松:今、ロンドン在住のアーティスト、アニッシュ・カプーア(Anish Kapoor)の作品を国内で作っています。1991年、横浜で仕事をしたことがあるのですが、純粋な空間を作り出す作品です。彼とは空間を構成することに共通の意識をもっているので、また一緒に仕事が出来るのは本当にうれしいですね。
アーティストたちには、「アーキテクチュアル・マニピュレーター(Architectural Manipulator )」と呼ばれています。「調整役」というところでしょうか。誰もやらなかった領域、まったく人がいなかったわけではないのですが、アーティスト側の意識に立ってものづくりをする人が、日本には少なかったのではないかと思います。パブリックアートでも、どこかでアーティストと建築する側との意識がずれていろいろな問題が起きたりする。アーティストが何を表現していくかを理解してあげないと、彼らの存在の意味がなくなります。そのために持っている知識を役立て、サポートする、それが建築家だと思いますね。

―事務所には、1994 年「欲望の砂漠」という展覧会に出展した武松氏の理想郷(循環型システム)の模型が飾られています。長崎の陶器の町「波佐見町」の、街の中にデザインがあふれる環境で育った武松氏は、アーティストであると同時に骨太の社会派建築家でもありました。