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59-3 建築家紹介10 芦原太郎/芦原太郎建築事務所

「建築は人」

  今月は、CーHOUSEの設計者芦原太郎さんの登場です。目黒区駒場の事務所に伺って話を聞かせていただきました。
―芦原さんは、個人住宅から公共の建物、マンションまでさまざまなお仕事をされていますね。
芦原:頼まれるといやと言えない性格だし、何でも興味を持つタイプですから。目標を持って理想像を掲げてやっていく建築家もいるけど、僕は自称カメレオン建築家(笑)。個人のクライアントのために住宅を建てる場合もあれば、デベロッパーのため、つまりビジネスのため企画の実現を考えてあげることもする。市民のための公共施設もある。建築という形を使っていろいろな仕事をしています。今度デベロッパーと組んで、アパートのシステム開発をし、初めてのロイヤリティ契約をしました。
―デザイナーズマンションが一般にも浸透して、デザインの重要性が認識され始めていると感じますが、個人住宅では、「せっかく建築家の設計でRC住宅を建てたのに、買い替え時には広さと駅からの距離だけで値段が決められ、普通の木造住宅と同じ程度にしか評価されなかった」という不満を持つ建て主もいます。設計者や建物についての機能性、デザイン性、さらにそれをリノベーションする意味のある付加価値などもっと語られていいのではないかとも思いますが…。
芦原:ただ、僕はそれで値段を上げるという気はしないね。確かにアメリカなどでは、しっかりと経済価値に反映されているケースもある。場所や広さだけで決まるのではなくて、「どういう家か」、「設計者は誰で、持ち主は誰だったのか」とか、そういったストーリーで値段が左右される。でも、例えばバーゲンセールで100円均一の商品が並んでいて、もしその中から自分にとって価値のあるお買い得品を見つけた人がいれば、賢い目があるその人をほめてあげたいな。賢い生活者が出てくると、値段の価値も意味がある。
つまり住宅の場合、「みんなの価値である必要はない」と思う。自分が家を買ったり作ったりするのに、「どうだ、いいだろう」とみんなから価値を認めてもらう必要はないと思わない?その辺の中古品でもいいものもあるのだし、住んでいる人が満足してくれるのが一番うれしいよね。昔の建築家というのは、王様というスポンサーがあって、国威発揚のような、一般人にわかりやすいものを提示しなくてはならないという責任もあったかもしれない。それなら僕も「時にお役に立とう」と思うこともあるけれど、住宅は違うもの。
―なるほど、そうですね。
芦原:それから、建物を建てるときは、いろいろとクライアントとの間で意見交換をするでしょう。昔の設計者の先生方は、そんな時クライアントを教育した。「人類の歴史を見ろ」とか言って洗脳した上で、自分のデザインを認めさせる。それに比べたら僕らなんてできるわけない。そもそも僕なんて、クライアントは皆年上だったしね。それなりの一家言持っている偉い方なわけだから、洗脳どころの騒ぎじゃない(笑)。こちらが勉強させてもらってきた。だから洗脳というよりは、クライアントのためにどうしたらいいか、何を求めているのかを考えてきたわけ。だからと言ってすべてクライアントに言われたとおり作っていたら、おかしくなることもたくさんある。そこは、建築家が説明していくだけだね。
―昔、住宅の設計コンペやりましたが、模型を使ったプレゼンテーションまでやったのに、結局奥様のお父様が薦めるハウスメーカーのプランに決まってしまい、設計者の方たちに申し訳なかった経験があります。普通の人にプランを決定させるのは酷ですね。
芦原:住宅設計の場合は、まさに「人」。クライアントも設計者といろいろやりあった上でないと、結局わからないでしょう。僕だって、突然3案出てきて、それを基に建築家を選ぶなら止めた方がいいと思う。「人」が信頼を得るわけです。「建築家に頼んだら、設計を変えられないんじゃないか」と思いがちですが、「人を選ぶんだ」ということにしてあげればいいんじゃないの。
大事なのは、なかなか建築事務所の先生と建て主を結びつける場面がないということでね。僕らは今、「アートウェブハウス -art web house-」という家作りをアドバイザーとしてお手伝いをしています。建築家と家を建てたいという人の接点を作るために、青山にスタジオを構えて仲人のような立場で「建築家による家作り」を紹介しているんです。のぞいてみてください。
―公共のコンペではどういうことになりますか。コンペでの審査、協会のお仕事も多々なさっていますね。
芦原:コンペでも同様の問題はあります。「人」を選ぶのか、「案」を選ぶのか。
 その昔、香川県に金子知事と言う人がいて、丹下健三さんとか大江宏さんなどの建築家を登用して、特命で「君これやってくれ」「香川県の文化をつくれ」と、良いまちづくりをしようという時代があった。その当時は入札が一般的でしたが、熊本や岡山などが後に続いて、バブルの頃まで建築家の特命の工事が結構あった。
 最近ではプロポーザルとか、コンペというのが増えてきました。プロポーザルとは、ある条件、例えば3年間で何㎡以上設計して、こういう建物を建てたという条件に見合った人たちが、簡単に案を出すスタイルなんですが、案を選ぶのか人を選ぶのかはっきりしません。
 コンペで最終的に1つの案を決めると、後から案を変えたくても変えられないという不自由さが出てくる。建築家本人としても変えたい、クライアントとしても変更したい、でもいったん決めてしまうと、なかなかそれができない。大勢の人の案の中から選ばれたのだからあたりまえですね。
そこで最近、建築家協会では、QBS=資質評価制度(Qualification Base Selection)というシステムを普及させようとしています。アメリカなんかのやり方ですが、建築家をインタビューする、あるいはその人の作った作品を見る、作品を管理する人のところへ行って取材するといったことで審査する。「あの人に建ててもらってどうでしたか」「建物はどうでしたか」と。すると「いや、ひどい目に逢っちゃった」とか、現実が浮き彫りになってくる。ほんとに自分たちの仕事を任せられる人かどうかをそこで判断するのですね。「人」を選ぶんです。
 個人や行政が、建築家といかにいい出会いをするかということがある一方、「商品」というもう1つの違った方向、マーケティングの話がある。さすがのデベロッパーもやっと「デザインというのが大事なのかな」ということに気がつき始めたようだね。
 その昔「K先生プロデュースのマンション」と名前だけで売れた時期もあったけど、結局マンションなんか、普通の奥さんでもモデルルームとか比べていくうちにだんだん目も肥えてきちゃうでしょう。僕はそういうところにすごくポジティブなんだ。いわゆる、デザイナーズマンションというと「僕のマンションはそういう風に呼ばれるのはいやだ」という人もいるけど、それはその昔、デザインというものをわからない人のために使っていた名残だと思う。
 いずれにしても「デザイン」という言葉はいろんな人に浸透し始めていて、いい方向に動いていると感じている。
僕自身は、クライアントと一緒にいいものを作っていくのなら、分野は関係ない。住宅であろうが、公共であろうが、デベロッパーだろうが楽しくやるだけだよ(笑)。

芦原太郎(あしはらたろう)
1950年 東京都生まれ
1974年 東京芸術大学美術学部建築科 卒業
1976年 東京大学大学院建築学修士課程 修了
1977年 芦原建築設計研究所 勤務
1985年 芦原太郎建築事務所設立 代表取締役
2003年  芦原建築設計研究所 代表に就任
F-HOUSE、白石市立白石第二小学校、シマノ本社ビルウェストウィング、西五軒町再開発計画など、個人邸から、市民参加型のワークショップ手法を設計に取り入れた公共建築まで幅広く手がける。
まちづくり活動、他分野との商品開発実験などにも取り組んでおり、日本建築家協会副会長(2000-2002)、東京芸術大学講師(2001-2003)、グッドデザイン賞審査員などの社会的活動も精力的に行っている。

58-3 建築家紹介09 内海智行/ミリグラムスタジオ

「コラボレーションの醍醐味」

  今月は、ミリグラムスタジオの内海智行氏です。
弊社では、2001年「inner skin house」を施工させていただいており、現在渋谷区にSOHO住宅、品川区に共同住宅を施工中です。
―「inner skin house」では、建て主のK様が時間をかけて、ご自身でどんどん内装に手を加えられていく過程が楽しみでした。内海さんは、そのような 「作ること」にこだわりのあるお客様の住宅を、多く設計されているように見えます。
内海:室内に関しては、Kさんのように、ご自分もデザイナーであるような強い主体性を持った建て主に限らず、ほとんどの人はきっかけさえ与えてあげれば、それぞれが持っているイメージの可能性を広げていけるはずです。したがって、建築は、そのきっかけを継続的に与えられる器であればよいと思っています。仕上げと構造体を分離しやすい鉄骨造などは、器の有り様がオープンなのでインターフェイスがいいですね。室内のしつらえは住宅にとって大切な要素ですから、建築の計画とは、ある部分で切り離し、その人それぞれの感性をうまく引き出してあげるプロセスを提供できるように心がけています。
―コミュニケーションの力ですね。
内海:住まいかたについて、私の方から従来のイメージを押し付けることは決してありません。ユーザーとそれに関わる人たちの生き方に適した形で空間がそこにある、そうした固有値となることが大切だと思っていますね。
―大手施工会社の設計部出身でいらっしゃいますが、現場の知識も豊富なのではありませんか。
内海:知識に関して他と比較することはできませんが、ただ、アトリエにありがちな新規性ゆえの設計図面の精度の問題などは、現場からすれば不信感以外のなにものでもないという自覚はあります(笑)。
ゼネコンでは現場監督が会社上での立場が上ですから、設計の意志を貫くためにはいろいろと気を遣います。もちろん、そうした中で養われた知識もありますが、それは、技術的なことよりむしろ姿勢みたいなものかもしれません。でもそれは、現場との信頼関係がいい施工結果を生むという、あたりまえの事が、結局建て主の利益につながるということにつきると思います。
―話はさかのぼりますが、内海さんはイギリスの芸術大学を出ていらっしゃいますね。弊社で今施工中のC-ONE新築工事の建て主、フランス人デザイナーのグエナエル・ニコラさんともそこで一緒だったそうですが、ニコラさんは今、日本のさまざまなデザインの分野で活躍されています。「au」のロゴとか、SANYOの液晶テレビとか、「SONY GINZA」、「ISSEI MIYAKE」などの多くの店舗のインテリア、その世界に境界がないので驚きました。
内海:そうですね。彼はプロダクトやインテリアデザイン等幅広い分野で活躍しています。僕自身は確かにそうした他業種のクリエイターとの交流が多い方だと思いますが、そうした他者の創造的な固有値を自らの建築の中で収斂することにあまり抵抗がありません。むしろ、そうしたコラボレーションから刺激されることの方が面白い。もちろん、人文や史学な過去の蓄積を尊重しつつ、建築として守るべきところ、主体性を持ち合わせてはいますが、いい意味で、新しい出会いが自分に新しい刺激を与えてくれると思っています。

―C-ONEについては、工事現場を定点撮影されたりするようですが、ニコラさんが内装を担当されるとのことですね。
内海:そうです。室内は完全に施主が主導し、我々がタッチしないところです(笑)。でも、もともと建築は周辺環境という絶対的に自分達が関与できないものの中に存在するので、このケースでは、さらに内部も自分が関わらないものとして、その狭間としての外殻が建築としておもしろい(笑)。
今、働きながら住むSOHO系が増えて、「住宅」の概念は変わりつつあります。それらはかつてのように、家族という単位を一つ屋根の下に、明日の労働力を回復する場として機能することだけに主眼を置いた住環境ではありません。C-ONEも「住む」という機能を持ち合わせながらも、おそらくはまったく異質な空間になると思います。でもそれは、ニコラさんの「住む」という目的が、一般と極端に異なっているわけではなく、ユーザーの空間への価値観が社会生活そのものをそこにおいて、そこで生まれてくるものに注目しているのだから、それはそれで意味があると思います。
 技術的な産物としての建築は日々進歩していると思います。しかし、いわゆる建設によって社会的な産物として付随してくる部分、つまり感性や文化の成熟は日進月歩とはいかないようです。ほんとにゆっくりなんです。時間がかかる。だから、わかりあえないことを嫌がらずに、いろいろな人に関わって理解を深めていきたいですね。
―どうもありがとうございました。
内海さんがC-ONEの地鎮祭で、「これからみんなで楽しく協働作業を始めていきましょう」とわれわれ施工会社にも現場の人にも挨拶されたのが印象的でした。「皆で作るのだ」という意識を一つにしようという心づかいが感じられました。「現場では英語が飛び交っていて困る」という辰の担当者の、愚痴とも自慢ともつかない一言も記しておきます。
1963年 茨城県生まれ
英国王立芸術大学院修了後、筑波大学大学院修士課程修了
大成建設設計本部勤務を経て
1998年 milligram studio 設立、同代表
主な作品
中野坂上の住宅
柿の木坂の住宅
旧大隈邸、弧状の増築
Towered Flat
Inner skin house

57-3 建築家紹介08 玉田敦士/LDK

「現場で培った感覚を活かす」

今月は、建築プロデューサーの玉田敦士さんです。玉田さんは施工会社の出身ですが、5年前独立し、設計事務所を立ち上げました。
こだわりを持って自分らしい家作りをしたいお客様のために、さまざまな提案を行っています。弊社は、「東京調剤薬局(品川区)」を施工。現在新大久保でもプロジェクトが進行中です。
-辰建設に勤めた後、設計事務所LDKを立ち上げたわけですが、「プラン付土地検索システム」「外断熱コンクリート住宅」「オリジナルキッチン」「car&Home」など、次々と豊富なアイディアを打ち出して、若い設計者とコラボレーションを行っていますね。
玉田: 7年間現場やって、辰建設ではいろいろやらせてもらった、という思いがありますね。育ててもらったなと思います。今思うことは、建設業は設計と施工というレッテルで分けすぎているかなということなんです。現場を一通りやれば、建築はできます。僕は施工会社にいるとき、突貫の現場が多かったんですが、そのときに、自分が今こういうことをやるなんて夢にも思わなかったですね。施工現場ではいろいろな矛盾が起こってくるわけですけど、それが結局、自分の身に降りかかってくることになる。これだけ日にちがかかる、縮めなくちゃならない。「お前この期間しかないけどできるか」と上の人に言われるんです。「男の子だからできるよな」とね(笑)。それで「ハイ」と返事をするんですけど、普通にやっていたらだめなわけ。一人の職人さんがやっているときに、下の足場で別の職人さんが別の仕事をできるように、自分で工夫するんですよ。そんな中で「身体感覚」が育った。社長が営業をやれと言わなかったら、今でも現場で施工監理をやっていたと思いますよ。現場では上長にあこがれていました。現場という社会の中で十分なものでした。任せてもらってうれしかったし・・・。ところが営業をやれ、と言われ、自分で仕事を取ってこないといけない、仲間もライバル、大変でした。今、経営者になってみると、よく自分のような人間に2億円の工事現場なんかやらせてくれたな、と思いますね。でも、やる気のある人にとってはとてもいい会社でしたよ。問題点を自分で考えて抽出して、それを解決しようと考えれば、アドバイスをくれる人が回りにいっぱいいた。職方もすごく親身だった。みんな忙しいでしょう、でも一升瓶持っていくと話を聞いてくれた。そして「またいっしょに現場やるからね」と声をかけてもらえる。狭い分野の中だけど「マーケットイン」がありました。
―そんな玉田さんが営業をやりながら、建築プロデューサーを目指すようになったのはどういうきっかけがあったからですか?
玉田:ある時期から設計事務所の技量が落ちてきたと感じ出して。うちの会社も設計施工をやっていて、みんな実施設計やっていましたからね。
 僕は文学部ですから、「魂はディテールに宿る」という感覚がわかるんです。細かいこと、例えば素材の取り合わせとか「(設計者が)できないのなら、任せてもらっていいんだな」ということでやり始めた。
ちょうどそのころ会社ではESNA(エスナ:「環境に配慮した建物づくり」を提案してモデルルームを作り、事業展開を図っていた)を始めていて、僕は当初現場にいてそんなことをやっているなんて知らなかったんですが、営業に入り、環境に配慮した素材選びなどにも参加し始めた。ピーエス(輻射冷暖房機器)の社長宅の実験ハウスなど、面白かったですね。
でも、決定的だったのは、建築プロデューサーの浜野安宏さんとの出会いです。総合格闘技というのがあるでしょう。プロレスでも何でもありで勝負する。そういう世界を感じたんですよ。手を使っちゃいけないとか足は使わないとか、そんなルールはお構いなしの世界。結果がよければいい。世の中いろいろな経歴の人がいるわけだし、自分もいろんなことをやらされてきたわけだし、何かそういうものがつながりかけてきて自分が見えてきた。
そこで、建築プロデュースの仕事を始めたわけですが、やはりそれはそれで大変でした。5年間は生きているのが不思議というくらい失敗の連続。でもここまで何とかやってこられたわけです。

<浜野安宏さんは、青山のフロムファーストの企画などを行った、街区のプロデューサーとして先駆的な存在。当時チームハマノの事務所であり、パタゴニア渋谷店を1階に擁する「クレインズファクトリー」を渋谷キャットストリートに辰建設で施工。北山恒氏設計のこの建物は、構造や部材の取り合わせなど刺激的な建物だった。>
玉田:僕らが現場で工事をしているころはバブル全盛期。多少の失敗は許された。それに比べて今の若い人たちは、ある意味かわいそうだな、と思いますよ。失敗が許されない。
予算も扱わせてもらえないし、プラスのモチベーションがなければ、いやになるでしょう。現場管理はそれでは続かない仕事ですよ。失敗をしながら、また次につなげる―そのようなフィニッシュイメージを育てることが大事です。
 それから今、若い設計者は皆CADというコンピュータソフトで図面を書いているでしょう。あの害悪をひしひしと感じています。例えばリンゴをCADやCGで描くとする。それはただのイメージが脳ミソを通過して、機械で絵にされているだけで、人間は何も考えてはない。身体感覚の欠如を感じます。昔、手描きで図面を書いていたころは、建築に関する理解度が深まるたびに図面も上手にわかりやすく早く書けるようになる、というのが常識だったんですが、若い人たちのバランスがどうも悪いんですね。そういうものを補う必要性がいろいろな場面で出てきていると感じます。
―今後のLDKは?
玉田:僕は今年42歳で来年後厄が明けるのですが、先日えらいお坊さんに会う機会があって言われたことがあります。「厄年の厄は『役』と心得よ。42歳までやってきたことで自分の社会に対する役目が決まる。厄年以降はそれまでやってきたことを支えに、社会に対して自分の役目を果たせ」と。
 僕は雑誌の連載などで文章を書くときに、「現場監理の経験がなければ、このキャプションは出てこない」とよく言われます。設計は別にやる人間がいる、法律関係も法律に詳しい人間に聞けばいい。これまでの5年はあっという間でしたが、第2のステップとして、どのようにブランド確立を行うか、この5年が正念場だと考えています。社会に対して何ができるか、ローカルブランドでいいからどう攻めるかを見極めたいですね。
―どうもありがとうございました。
1962年 大阪府生まれ
1989年 東京都立大学人文学部中退
辰建設株式会社入社
1999年 LDK設立
主な作品
ワイヤードダイナー (渋谷区桜丘)
X-GIRL  (渋谷区神宮前)
NOS  (港区青山)
その他 約50物件のコンクリート外断熱住宅をプロデュース。
著書
『car&HOME 1,2,3 』(ネコパブリッシング)
現在、CarMAGAZINE誌に「クルマ居住学」を連載中。

 

56-3 建築家紹介07 金田勝徳/構造計画プラス・ワン

「新しいことへの挑戦と安全性」

今月は、構造設計の先生に登場いただきます。2000年第10回松井源吾賞を受賞した金田勝徳氏です。弊社は「二軒家アパートメント」「二十騎町の集合住宅(20K)」などの施工をさせていただきました。
―構造のデザインを見せる設計が増えているようですね。
金田:確かにそうですね。構造設計者である我々もある意味緊張しています。(笑)
―1つの建物に異なった素材を用いる建物もよく見られます。
金田: 10年くらい前から「ハイブリッド構造」と呼ばれる、混合構造のものが積極的に作られるようになってきました。それには2つの方向があって、1つは構造種別を混合するもの、たとえば柱をRC造、梁をS造といったものです。そしてもう1つは構造システムそのものが混合しているもの、たとえばラーメン構造と壁式構造が混在しているものです。前者はゼネコンが経済性を考えて進めてきた混合構造が主流でした。例えばRC造、鉄骨造の組み合わせを行うときに仕口の部分、納まりをどうするか各ゼネコンが独自開発した技術ですね。一方、設計者が構造材ないしは構造システムの適材適所を意図して、構造種別にあまりとらわれずに、異なったものを組み合わせて混合させるものです。それまであまり見られなかった新しいシステムを形成する試みを積極的に行うようになり、材料の使い方も自由になってきています。
―そういう中で、構造設計の先生に要求されることは難しくなってきていると考えられませんか。
金田:一筋縄ではいかないと言えます。でもいろんなことを話し合いながら作っていくという風潮はいいことだと僕は思っています。昔は「まず意匠の設計があって、それから構造設計事務所に計算の依頼があって」という具合で、とてもコラボレーションといった雰囲気ではなかった。今は、構造の側から提案をしたり、建築家の主張の中で構造上の問題点はどこなのかなどと、構造の面からもきちんと説明したりしてそういう中でコラボレーションができている。建築家の方でも、構造設計者によって設計のやり方が違うので、「今回はこういう構造だから○○さん」というふうにデザインによって、コラボレーションする相手をかえています。
―金田さんは、旧ワークショップの3人の先生(木下道郎氏、北山恒氏、谷内田章夫氏)ともお付き合いが長いですよね。
金田:そうですね、3人それぞれとお付き合いがありますし、3人もいろいろな構造設計の方たちとプロジェクトごとに組む、そういう形ですね。私がお付き合いしているいずれの建築家の方々も我々にとっては気を抜けない、一緒にやっていて刺激的な方たちばかりです。
―構造設計も個性があるわけですね。仕事がバラエティに富んできて、構造設計を目指す若い人が増えているのではありませんか。
金田:うーん、それでもいろいろな大学の先生に聞いてみますと、やはりそれほど増えているわけではないようです。学生の理科離れ、数学離れの影響があるようです。「授業に構造力学、材料工学など力学とか工学という言葉がつくと、とたんに授業を受ける学生が減る。環境系、デザイン系という名前にしないと学生が来ない」という話も聞きます。
―でも言葉を変えて学生を集めても、離れていきますよね。
金田:結局、両極端なんです。かたや数学嫌いでそういうものには見向きもしない。反対にコンピュータ大好きだから、何でもコンピュータ中心で解析などには飛びつくナントカオタクと呼ばれるような若者。構造設計とは、本来そういうもいうものではないんですよ。現実に建物があるわけで、そういう意味でバランス感覚が大切ですね。
―計算など難しいでしょう、大変そうです。
金田:しかし、コンピュータができて、「解く」ということについては、飛躍的に作業が楽になりましたよ。我々がこの世界に入った頃はすべて手計算だったので、ずいぶん時間がかかったものです。その分どういう風に設計していくかということを考えることに時間を割ける。Try & Errorによる検討も容易になりました。それに今の若い人にも大きな期待を感じています。今、大学で構造計画の授業を持っているのですが、最初せいぜい20人くらい来ればいいだろうと踏んでいたら、50人来て、後半になってもまだ40人以上は出席していますね。
―学生側に伝わるものがあるかどうかですね。金田さん自身、自分がやってこれは面白かったという設計をあげるとすると、どういうものがあげられますか。
金田:そうですね、いろいろありますが、最近、辰さんで施工された北山恒さんとの「二十騎町の集合住宅」も面白かったですよ。「ヤジロベエ構造」で中央の柱で建物を支え、先端の鉄骨の柱でバランスを取っているものです。あの先端の細い柱が建築重量を支えているのではなく、地震動による揺れを防ぐ役目を果たしているのです(図参照)。北山さんと、この形をさらに発展させた構造の建物をシリーズで考えようとしています。構造設計も常に新しいことを考えなければ、何のためにやっているのか、ということですよね。
―阪神大震災以後、一般の方々も住宅を耐震構造にするなど関心が高まっています。実際のところ安全性の基準はどのような点で判断されているのでしょうか。
金田:分譲マンションでも免震構造にして、資産価値を持たせるところもありますね。普通のお客さんにわかりやすいのは震度で、「震度5で壁に少しクラックが入ります」などとお話することになりますが、構造設計は、地表面の加速度レベルの「ガル(cm/sec2)」で判断していますね。400ガルくらいなら、壁にはクラックが発生し、柱・梁が部分的に破損するくらい、この辺を基準に考えます。あまり非現実的な数値を前提にする必要はない、しかしどんなことがあっても倒壊させないというところですね。「構造設計は何か」と問われれば、新しいことへの挑戦と安全性が乖離しない―このことにいつも心をくだいていると言えます。そのためにも、自分たちの設計した建物の性能、性質をきちっとオーナー、施工者に伝えていく能力が求められていますね。
―ありがとうございました。
(取材は新潟県中越地震の前日10月22日に行われました。)
1944年          東京都生まれ
1968年          日本大学理工学部建築学科 卒業
1968~1986年 石本建築事務所勤務
1986~1988年 ティー・アイ・エス・エンドパートナーズ
1988年     構造計画プラス・ワン 設立
1993年    1993年度JSCA(日本建築構造技術者協会)賞受賞
2000年    松井源吾賞受賞
主要な作品
静岡スタジアム・エコパ(佐藤総合計画+斉藤公男研究室)
京都アクアリーナ(環境設計・團紀彦設計共同企業体)
東京大学先端科学技術研究センター(シーラカンスアンドアソシエイツ)
名古屋大学野依センター(飯田義彦建築工房)
北京建外SOHOプロジェクト(山本理顕設計工場、C+A、みかんぐみ)