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69-3 建築家紹介20 関根祐司/ARBOS(アルボス)

「クリニック」

関根祐司氏

 

―今月は、「南砂町クリニック」の設計者、㈲アルボスの関根裕司氏にお話をうかがいました。
―HPを拝見しましたが、クリニックの設計を多く手がけていらっしゃいますね。項目が別に設けられていました。
関根:クリニックの建築は、専門的な知識がないと難しいものなんです。私の場合、大学卒業後、すぐ千葉大医学部の先輩方がクリニックの設計を依頼してきましてね。先輩も気軽に頼めるということなんでしょうか、何件か手がけたんです。医療現場の資料なども教えてくれて、それが今の仕事のベースになっていますね。
―その後、桑田建築設計事務所にお入りになっています。
関根:千葉では大きい方でした。官庁の仕事が主で当時は実務ばかり。設計監理だとか、今でも実務は自信ありますよ(笑)。そのうち、先輩の産婦人科の仕事が来て、27のとき、いったん独立しました。武者修行に出るつもりだったんですけど、周囲の皆さんから独立すると思われ、またクリニックの設計の依頼が来たんですね。結局3件ほど設計してから、ワークショップ(北山、谷内田、木下3氏の設計事務所)に入りました。
―なぜワークショップに?
関根:目指しているデザインが、ワークショップさんのものに近かったんですね。学生時代に大学院の先輩の仕事を手伝っていたのですが、流行っていたのが、ラショナリズム(合理主義)。自分が読む本もちょっと年代が上の人のものが多くて、北山さんには「関根君って、俺たちと同じ年代の人みたいだね」と言われましたよ(笑)。
デザインワークはそこで教わりました。当時事務所内では、大きな物件をやってきた人間が結構少なかったので、桑田事務所でも経験があったし、2件ほど担当しました。約5年いましたが、ノリが良い雰囲気でしたね。「いいところに来たな」と今だに感謝しています。
―ワークショップからの独立が35歳くらいですね。
関根:基本的には専門はクリニック。だから仕事はある、いう感じでした。
―クリニックの設計というと、具体的にどのように大変なんですか?
関根:お医者さんにはお医者さんの文化があるんです。それが具体的にわかるまでは経験が必要ですね。ライバルは、設計屋さんでなく、薬屋さんの連れてくる内装業者です。仕事は、設計プランが採用されるというものではなく、ドクターの話相手になれるかどうかが決め手。
―話のレベルについて来られるかどうか、なんですね。
関根:そうなんです。お医者さんは、医者であると同時に経営者。大病院にいたときは雑用としか思っていなかったことも独立と同時にやらなくてはならないでしょう。例えば、「レセプト」と呼ばれる、保険請求の書類の精査も、大病院にいたときは職員がやっていた。それを自分でやらなくてはならないですし、そういう細かい仕事を全部自分でやるとなると、お医者さんにもいろいろ不安が出てきます。そんなとき「他の医者はどうやっているのか」という情報がほしいんです。
それなのに、20代の頃は、依頼のあった仕事をそのまま素直に設計していたんですね。30件くらいプレゼンテーションをやって、受注できるのが、せいぜい1件でした。「競合している医院建築専門の設計者や内装業者より、プランが悪いとも思えないのに、何故だろう」と当時は思っていました。30代になってきて、やっと「なるほど」と理解しましたね(笑)。
―若いということだけでもハンディでしょうからね。
関根:それから、お医者さんでも甘い考えで独立を考えられていて、いざと言うときに融資が下りないという方については、計画自体が成立しないので、今は話が来た場合、まず「事業計画」を立てることから始めています。スケジュール(今の病院を辞めるタイミングも含めて)や、事業資金など、ある程度の時間を見計らってから、雑談の中で本気かどうか確かめる。何よりも人間関係の形成が必要、あうんの呼吸です。薬問屋さんは、この気の使い方がうまいですね。
ところが最近は、医者と医薬業界の癒着を防ぐため、医薬分業がすすみ、診療は医院で、薬は院外処方で調剤薬局が受け持つようになってきましたから、お医者さんは相談相手がいなくなっちゃったんです。それで私のような設計者が話を聞く機会が増えてきたんですね。
―蓄積されたノウハウが発揮できる、ということですね。
関根:薬問屋で昔から付き合っていた社員が、今社内では部長だとか役員になって偉くなっていますが、そういう人たちから私は教えてもらいましたから、今も情報交換をしています。むしろ最近のプロパーの若い人のほうが常識がない場合も多く、逆に私たちから「そういうことをやっていたら、ダメだと思うよ」と教えてあげることがあります。
 クリニックの設計をやってきて、面白くなってきたのは、各先生の診療方法をじっくり伺って、「それまでの医院建築のプロトタイプが、必ずしもベストではない」ということに気が付いてから。それぞれ先生の治療にマッチした独自の空間があるはずで、こちらもそういうデザインを提案するようになってからです。今回の「南砂町プロジェクト」のO先生のように新しい医療方法を進めている先生の仕事もくるようになりました。
―お医者さんも競争激しいですからね。
関根:そうです。何か目玉診療を持っていないと、生き残れない。診療点数も、法改正でどんどん変わってくる。診療報酬の金額が大きく変わります。今まで金のなる木だった診療が、とたんに経営の圧迫材料になる。MRIやCTの機械もものすごく進歩していて、昔は高額だった機械が今では安くなっている。保険点数が下がる直前に高額の機械を買った先生は返済計画が大変になります。だから、情報収集は怠りないようにしなくてはならない。医療コンサルティングの方たちの勉強会に出ています。この先どうなるか、見通しを立てていかないと、お医者さんの不安に応えられませんから。
―そうですね。ゲノムが解析され、診療内容そのものが大きく変わってくることが予想されると聞きました。
関根:お医者さんは、脳神経外科、整形外科、神経科、内科、外科など、科によって診療テリトリーもあるので、どういう治療を自分がしていくのか、細かい部分まで的確な判断が要求されています。 私自身は、ほとんどの科のクリニックの設計経験があるので、今後もお医者さんの立場になって一緒に考えてあげていきたいですね。

―どうもありがとうございました。





関根 祐司(せきねゆうじ)



1958年 東京都生まれ

1980年 千葉大学工学部建築学科卒
桑田建築設計事務所勤務

1985年     同事務所退所
1987年  ワークショップ勤務
1993年     同 退所
1997年  ARBOS(アルボス)設立 現在に至る

主な作品
クリニック、集合住宅、専用住宅、店舗など多数

55-3 建築家紹介06 パルフィ・ジョージ

「建築はサービス業」

パルフィ・ジョージ氏

 

今回は、日本で活躍中のハンガリー人建築家、パルフィさんにご登場いただきます。
 辰は2002年竣工した「MASUNAGA1905」(設計:サイトウマコト、実施設計:パルフィ総合建築計画)を施工させていただきました。
―来日して26年。これまで日本で仕事をしてこられて、どんな感想を持っていますか。
パルフィ:建築が他の産業と大きく違う特徴は、「人的要素」が非常に大きいことです。産業という言葉で考えれば、第二次産業のはずですが、実態は異なります。設計者、施工者に99%存在することは「作る」という作業。しかし人間がすることなので、設計・監理者が、現場の作業を行う人のモチベーションをいかに高めるか、どうやって施主のために「絶対にいいものを作ってあげよう」という気持ちにさせるか―これが結構重要なんですね。
自分の仕事だけでなく、仕事の対象となるものに対して建築ほどグレードが変わるものはない。例えば、ホンダの車を作るということは、「工場の作業員が一生懸命働けばいいものができて、そうでないときはダメだ」ということはなく、車の性能は極端には変わらない。しかし、建築は恐ろしくそれが大きい。ある意味、システム化されていない、一番遅れている業界ではないかと思います。
―現場の予算管理もありますし、担当者のコミュニケーションがなかなかスムーズに行かない場合もありますが、いろいろと初めての条件に対応しなくてはならない建築もあります。
パルフィ:建築の中で「今までだれも考えていなかったアイディアを盛り込む」ということもあるとは思うんですが、僕は、誰も考えていなかったことの中にどれだけ評価に値するものがあるのか、疑問を持っています。もちろん建築の中にも新境地というのはあるし、人間の空間に対する欲求はいろいろと変化していく。しかし、逆に今最先端の技術をどう人間らしいものに生かしていくか、を考えたほうがいいのに、デザインとか形とか「今まで誰も考えていなかったことが何よりも先に来て、作者の存在だけがアグレッシブに出ている気がします。メディアの問題もあると思います。とにかくメディアに載らないと仕事が来ない、という風潮があるようですが、僕自身はこれまで長いこと仕事をしてきて、評価されたい対象が本当に変わってきました。本当に評価されたいのは、お客様からです。本格的な会社案内も、ホームページも作っていません。それでもお客様から口コミで仕事をいただいています。
―建築専門雑誌だけでなく一般誌でも建築を取り扱うようにはなりました。
パルフィ:それは住環境に対して一般人の関心がある程度高まったこともあるかもしれませんが、僕は日本人の暮らしがそれほど良くなったとは思わない。部屋が広くなったわけでもないし、結局「美しい建物に住みなさい」という消費・購買意欲を刺激しているのに過ぎない、と思います。僕は、人がいない建築写真は無意味だと思う。誰もいない殺風景な空間、誰もいないところで建築は美しいはずはない。そんな建築写真がいっぱい雑誌に出て、その隣に、ファッションや食べ物のページがあって、「そんな服どこにしまうの?」と言いたくなってしまいます。
―お客様の希望というのもありますね。
パルフィ:最近、大手ゼネコンの一人勝ちみたいな話も聞きますが、一人一人のお客様のニーズに応えて、きちんと工事するところがどれだけあるでしょうか。お金持ちなら、坪300万かけてもいい、というお客様もいます。
例えば、初めて家を建てるなら、風変わりな打ち放しの家を高級住宅街に建てるかもしれません。でも50歳も過ぎ、会社も経営するような地位になって「そういう家に住むのはくたびれちゃった、もっと楽な空間に住みたい」という希望を持つお客様もいます。木造もきちんと作れば、設計に2年以上かけて、宮大工を呼んできて、となるかもしれない。でもそこまではしたくないと思うでしょう。じゃ5億円で土地を買って、2億円で建物を作るとして、そのときに、天井はむき出しとか、アルミのフレームとか、都心に今並んでいるような建物はどうか、というとお客様はそういうものに関心がないんですよ。彼らが見ているのは、「Architectural Digest」とか、外国の雑誌、そして不動産情報。そんな中でも1冊に1,2件、満足するものがあればいい。ギンギラギンのアメリカのリゾート物件はほしくないし、装飾は不要。まじめでシンプルなディテールの建物だけど、中身にはそれなりのグレードのものがほしいんです。ソファセットに600万かかってもかまわないし、厨房に2000万かかってもいい。そのように お客様が考えているのに、そういう生活文化にまで理解をもっている施工業者がどのくらいいるでしょうか。そういう暮らしに対してまったく情報がないんですよ。
 「文化がない」というのは、「育てられていない」ということなんです。僕は、今の日本人は子供と一緒に過ごす時間がものすごく少ないのではないか、と感じています。大事なことが伝えられていない。18-22歳の若者が挨拶もろくにできない。40歳過ぎの企業経営者なのに、人のことを気遣えない。おそらく、大学にいってから、親と全然接触がないのではないか。多分、家には寝に帰るだけ。1週間に1,2度は家族が一緒にテーブルを囲んでそれぞれの行動を話す機会を作らなくてはまずいのではないですか。いろんな環境、情報の中でお父さん、お母さんの行動を見せる―そういうことで子供は育つと思います。
―ハンガリーでは違いますか。
パルフィ:だんだんハンガリーもそうなり始めていますね。日本は塾があって、顕著ですけどね。
基本的に今の経済の流れは、「脅し」をかけて人をコントロールする、アメリカ流になってきていると思うのです。一生同じ会社に勤めていたらだめだぞとか、子供は作らない方がいい、とか。政治もそういうアメリカの経済の手法から学んでいる。個人に分断された社会が形成され始めている、と感じます。
「安心して暮らす」ということについて自分なりの考えがあって、人生の「優先順位」を自分で持っている人は、宣伝なんかに心を動かされない。18000円でどうしようもないスニーカーを買うくらいなら、3000円で十分だと子供に納得させて、ほかに必要なものをきちんと説明できる大人がどれだけいるでしょうか。
―耳が痛いお話ですね。5年前にハンガリーにも事務所を開設されて、これからも日本とヨーロッパを行き来するお仕事が増えそうですね。
本日はどうもありがとうございました。
1952年        ハンガリーエゲル市生まれ
1976年        ブダペスト工科大学建築学科 修士課程修了     ハンガリー政府建設省 建築研究所住宅研究研究員
1983年   東京大学工学系建築学科研究科博士課程修了
1983年   一級建築士事務所アーチ・スタジオを設立
1985年~  専門学校桑沢デザイン研究所非常勤講師(至現在)
1985年   ㈱アーチ・ストラクチャー設立
1989年   ㈱パルフィ総合建築計画と改名
主要な作品
山梨学院大学キャンパスセンター
山梨学院大学付属小学校
三井病院
Jean-Paul Hevin 新宿伊勢丹店
ANDERSEN 上野店

 

68-3 建築家紹介19 石川倬/石川設計工房

「神宮前」

―今月は、延命寺の庫裏新築工事を設計され、辰で新たなビルの施工も予定されている、石川倬氏にご登場いただきます。神宮前の事務所にお邪魔してお話を伺いました。

―石川さんは、ここ神宮前、原宿周辺でのお仕事を長年続けていらっしゃいますね。

石川:そうですね、独立して自分の設計事務所を持って今年で17年、それ以前も原宿にある事務所に10年間勤めていました。高校時代にも住んでいましたし、この町の移り変わりはずっと見てきました。VANジャケットがあって、キディランドがあり、コーヒーのレオンはデザイナー達の溜まり場だった。メンズファッションのバークレー、青山通りには路面電車。それでも30年前は人通りはそんなに多くなく、日曜日に表参道を歩いていても、出会うのはせいぜい数人、それも外人ということが少なくありませんでした。木造の教会があって、アメリカの色合いがある住宅地でしたね。

それが20年前くらいからアパレル関係の大型店舗が建ち始めました。まずパレ・フランセ、そしてラフォーレ原宿ができ、一挙に人の流れが増えましたね

―そうでした。表参道なんて、静かでしたよね。

石川:原宿の地元の人は派手でもなんでもなく、ごく普通の下町の人たち。人情味あふれる昔ながらの暖かい関係が残っています。私自身そういう方たちとのご縁でずっと仕事をやってきています。来るものは拒まずで、いろいろな建物を設計しています。

 仕事の上でいつも気にしているのは、工法や材料。ローコストであるなしにかかわらず、「有機的な建物」を目指しています。

―有機的、といいますと?

石川:精神的な安らぎ、思いやりのある建物ですね。構造ももちろん大事、安全性は最優先です。例えば今度建てる事になったビルも、街並みに対する有機的なエレメントとしてルーバーを用いたのですが、目隠しとして隣接するマンションに配慮した結果です。仕上げは打ち放しと石貼りです。建物自体の柔らかさを大事にしています。

―今回辰が増築工事の施工をさせていただいた延命寺は随分と由緒あるお寺ですが、周りにはアパレル系のオフィスビルやデザイン学校などがどんどん建っています。昔は今の山手線の敷地にも延命寺のお墓があったくらい広かったそうですが、そういう状況についてはどうお考えになりますか?

石川:後からやってきた住人はお墓などがあると嫌がるかもしれませんが、私は家がお墓やお寺に面しているのは、悪くないと思いますよ。それより、日当たりもいいし、「お墓に面していて怖い」という人もいるかもしれないけど、死んだ人は生きている人に何もできませんから(笑)景色もいいし、都心にこういう広い空間があることは環境としてとてもいいことです。江戸の名刹と呼ばれる上野寛永寺、芝増上寺、音羽護国寺などで、今、江戸の名残を残して当時の広さを確保しているのは護国寺くらいのものでしょう。なるべく広いスペースは残しておきたいものです。

 延命寺のご住職が また面白い方でね。豪快な気質でいろいろなともお付き合いがあり、こちらもいろいろと勉強させてもらっています。寺の入口には毎日の心得がかけられて、日々の生活に密着したものがあります。例えば私が気に入っているのが、「暑いの寒いのといっては年をとる」。そんなに文句ばかり言って暮らしていったってしょうがない、ということですね。そういう場所は大事にしていくべきだと考えます。逆に、自分が建物を建てる立場で言えば、近所の人から「あの建物はあっていい」と思われる仕事をしていきたいですね。

-石川さんが建築家になろうと思われたのはいつごろですか?

石川:私は早かったとおもいますよ。中3くらいにはもう決めていました。というのは父が素人ながら、雑誌「新建築」を講読しているような人でしてね。自宅を建てる際に、出入りの大工に雑誌を見せて「こういう風にやってくれ」と、吹き抜けもあるような、当時では随分モダンな家を建てさせたのです。だから設計という仕事にはとても興味があった。でもスポーツも好きでした。高校時代はスキーでインターハイや国体にも行きましたから、大学へ進学するときは勧誘も来て、進路は迷いましたね。しかし仕事にするならやはり建築をやりたいと、一浪して日大に入りました。

―受験ぎりぎりまでスポーツに打ち込んでいらしたでしょうから、建築学科みたいに難しいところは現役では大変ですよね。

石川:設計の仕事は、図太さと繊細さを兼ね備えていなければならない仕事です。一つの建物を作る際にも言えることだし、事務所を持ち職業としてのモチベーションを維持しなくてはならない点でも重要なポイントです。 今の若い人の中には、せっかく独立しても仕事を続けられず、結局会社に入りなおすというケースも多いと聞きます。先日メーカーの営業マンから聞いたのですが、設計事務所もずいぶんと引っ越したり、無くなったりしている、とのことです。設計はお客さんにリピーターが少ない業界です。同じ人が家を建ててもせいぜい2回。だから、私はいろいろな仲間たちと協力して地道に仕事をしていきたいですね。

―表参道も大きく様変わりしていきますね。

石川:大学の卒業制作は「同潤会の再生プロジェクト」でした。その意味でも今後の変化には大いに注目していきたいと思っています。

―どうもありがとうございました。

 

石川 倬(いしかわたく)

1951年 東京都生まれ

1974年 日本大学建築工学科卒業 設計事務所勤務
1979年 石川設計工房 開設
現在に至る

主な仕事
病院関係、大使館、商業ビル、学校、共同住宅、専用住宅 その他多岐にわたる

 

 

 

54-3 建築家紹介05 佐藤尚巳/佐藤尚巳建築設計事務所

「景観を考えた建築」

今月は、中野の集合住宅(Estudio)の設計者、佐藤尚巳さんです。
―いつ頃から建築家になろうと思っていましたか?
佐藤:昔からプラモデルとか工作とか、ものを作るのが好きでした。何か ものつくりに関わっていたいと思っていたことと、クラシックが好きでした ので、自分の手でコンサートホールを作りたいという気持ちから建築学 科を目指しました。
いざ建築を勉強し始めると様々な面が見えてきて奥深い領域であるこ とも理解できましたが、やはり「作りたい」気持ちが強く、入所後すぐ現場 に出させてもらえると先輩から聞いていた菊竹事務所に入れて頂きまし た。菊竹事務所で多くの得がたい経験をさせて頂きました。7年勤めて 辞め、ハーバードの大学院に留学しました。もちろん建築も勉強しました が、アメリカという多民族国家の中で生活することで、言語、文化、宗教、 生活習慣など異なる価値観が存在し、どれも同等に正当性を持ってい ることを学んだことは大きかったですね。「日本が一番!」なんて思って いても、世界から見れば結構変な国なのですよ。公共という意識、街並 みや公共空間を大切にする文化もそこにいなきゃわからなかったと思い ますね。また「歴史というものがいかに大切なものか」も痛感しました。良 いものを継承してゆくことが文化だと思うのですが、日本は歴史の古い 国でありながら、古いものをどんどん壊していきますね。今の日本の建築 教育は、コンセプト至上主義で、新しい提案、奇妙な発想ほど大切にす るようなところがあります。これは建築家のエゴにもつながり、都市はエゴ の産物であふれかえることになります。

―アメリカじゃその辺はどうなんですか。
佐藤:コンセプショナルなことも教えますが、歴史教育や都市デザイン、 ランドスケープについても同等に扱っています。現実に社会に入って仕 事をするとわかりますが、変なことするとすぐ訴えられますからね。かっこ いいものを作っても使えないものを作っちゃうとすぐに訴訟。設計者も現 実の都市に対しては理性的に取り組んでいます。
もう一点、アメリカはヨーロッパ文化に対して劣等感がありますから、常 そちらを向いていて、ヨーロッパの文化や歴史をコピーする意識が非常 に強いといえます。メディアもそういうものを賞賛する傾向があって、建築 は文化欄で頻繁に扱われています。一般市民の建築に対する理解度 が良い意味で(大衆的ですが)、高いレベルを持っている。日本では、 漏水とか事故で記事になるくらい。せいぜい社会欄でしょう。最近は朝 日新聞の文化欄で少しは書いてくれるようだけど、それにしても全体から みれば、一般市民の文化や歴史的観点からの建築に対する理解度は 低いですね。
―建築が難しいので、評価をできる人が少ないのではないでしょうか。
佐藤:評価と言うより、まず一般市民の理解だと思いますね。最近「景 観」という話が出てきて多少そういうものが意識に上ってきた、とは思いま すが・・・。

―建築家側にも努力することがありませんか。
佐藤:一般的に、建築家は与えられた敷地の中でしか仕事をしていませ ん。「街の中でこの建物がどう見えるか、隣の建物とどう関わるのか」とい うことを考えない設計者は多いと思います。隣が将来どうなるかわからないのに配慮しようがない、という意見もあるでしょうが、個人の資産が社会 資産に比べるとはるかに大事にされていると感じますね。ヨーロッパでは 景観に対する市民意識は非常に高く、街中で建物を新築する場合、「い や、そんな高いものを建ててはダメ。壁面がどうの、色がどうの」とすぐに 厳しい意見が出てきます。京都のように歴史的な街並みや建物を保護す る条例はありますが、一般的な都市では景観を大切にしようなんて状況 ではない。東京もこれだけ外国人が来ているのに、観光資源として都市 景観を積極的に創ろうとする気運がない。行政が勇気をもって指導力を 発揮すれば、街はもっと魅力的になるはずなのに、と思います。

―ヨーロッパでは建築家が市長になるケースもよく見られますが、日本の 建築家ももっと政治に踏み込む必要がありませんか。
佐藤:前港区長の原田敬美さんは、菊竹事務所の先輩で一級建築士で す。いろいろ話を聞いていますが、政治的活動もなかなか難しいようです よ。簡単にはいかないようですね。

<佐藤さんは、現在吉祥寺で市政センター跡地に建設中の、「武蔵野市 吉祥寺シアター」の設計を担当されています。市が指名した6人の設計者 の選考会は一般公開され、佐藤さんに決定しました。外観は建物の高さ をおさえ、テラス状の都市回廊や高木並木を設けるなど街並みと都市景 観に配慮したデザインとなっています。>

佐藤:ハーバードを出て、いくつか設計事務所に勤務し、帰国を考えてい た時ちょうどヴィニオリが『東京国際フォーラム』のコンペを取りました。す ぐに彼の事務所に入り、日本事務所代表として6年半やりましたが、人生 の一番いいときを捧げた感じですね。あれだけお金使って、完成度の高 いものを作る仕事をしてしまうと、達成感というか、しばらく人生観が変わ ったようなところがあって不思議な感じでした。今は建築の流れが変わり つつあるような気がしますが、今後も「街並み」をよくしていくために地道 にやっていきたいと考えています。

―どうもありがとうございました。

 

1955年       東京都生まれ
1979年       東京大学工学部建築学科卒業
1988年       ハーバード大学デザイン学部大学院修了
1979~1986年 菊竹清訓建築設計事務所
1987~1987年 Cambridge 7 Associates (Canbridge,MA)

1988~1990年 I.M.Pei and Partners (New York)
1990~1990年 Rafael Vinoly Architects PC (New York)
1990~1996年 ラファエルヴィニオリ建築士事務所、日本事務所、所長
1996年     株式会社佐藤尚巳建築研究所
主要な作品 目白の家増築(1997) 南通英青服装有限公司工場(1997)
日本外国特派員協会改装計画1期、2期(1998、2000) 南通英瑞会館(2000)
神保町一丁目南部地区第一種市街地開発事業(デザイン協力)(2003)