177-3 奥野 亜男 奥野ビルオーナー/ 奥野商会代表取締役

2014年12月28日 at 2:11 AM

いいものを大事に使う

今月は、東大井3丁目集合住宅の建て主であり、銀座のレトロビルとして有名な「奥野ビル」のオーナー、奥野亜男様に登場いただきます。「奥野ビル」は、向かって左側の棟が1932 年(昭和7年)に、右側の棟が1934年(昭和9年)に建てられたもので、特に、銀座で手動エレベーターが残っているのは、このビルともう1件だけとのこと。奥野ビルの1階事務所で伺いました。

―最近の銀座の中央通りは、ずいぶん変わりましたね。有名ブランドの大きな建物が並び、巨大な工事中の現場もあります。そんな中でこの「奥野ビル」(三原通り)は、観光名所にもなっているようですね。
奥野:先日も中央区の「区内の名建築を訪ねるツァー」という企画で見学者が見えました。テナントは画廊やギャラリーが多く、古くから借りている方もいます。建物は基本的に昔のままで、変わったのは設備関係です。20年くらいの周期でメンテナンスして、新しいものに更新していますね。
曽祖父の治助(1代目治助氏)は、三重の志摩町の生まれですが、1910年(明治43年)、上京して機械部品工場を立ち上げました。3つの会社と合併して作り上げた部品関係のメーカーは、今年で創業100年を迎え、今も藤沢に本社を構えています。私も社外役員をやっています。
一家は銀座に住んでおりましたが、1923年(大正12年)関東大震災で、都心は壊滅状態になりました。幸い、皆、命は助かりましたが、家はなくなり、父、(2代目治助氏)は自宅と工場を大井町に移すことになりました。そして、都心では、多くの人の住宅が足りなくなったため、その更地となってしまった場所に、当時としては画期的な集合住宅「銀座アパートメント」を建てることになったのです。地下1階、地上7階、設計は同潤会アパートの設計者、川元良一先生でした。
同潤会は1923年(大正12年)に発生した関東大震災の復興支援のために設立された団体であり、耐久性を高めるべく鉄筋コンクリート構造で建設され、当時としては先進的な設計や装備がなされていた。(Wikipediaより)

竣工当初は、歌手の佐藤千夜子や詩人の西条八十など、先進的な方たちが住んでいたと聞いています。何しろ、当初から各部屋に電話が引かれ、地下1階には浴場もあったのですから。
外装のスクラッチ・タイルは、関東大震災の復興時に流行ったデザインです。他にもそういうビルがいくつかあったようですね。手動エレベーターも新しかったのではないですか。天井が高い7階は、ヨーロッパに多かったようですが、洗濯室だったそうです。
第二次大戦では、空襲を受けましたが、火災は免れました。戦後、GHQがやってきて、都心のめぼしいビルを見て回ったようですが、うちは天井が低いので、使用するのをあきらめたらしいです。
昭和30年代に入り、世間の住宅事情が全国的に良くなってくると、家風呂がないことから、むしろ銀座という地の利で、事務所としての需要が増えてきました。建築設計事務所などが多かったようです。今は浴場も改修してテナントに貸していますが、平成に入ってからは、画廊、ギャラリーが多くなりました。リーマンショックの時に一時空きがでましたが、その後はアンティークのお店が多くなってきて、時代、世相を表していると言えますね。
入居希望者が絶えないのですが、だからテナントさんもこだわりのある方が多いんですよ。例えばトイレを改修するときも「和風スタイルのものをどうしても一つ残してほしい」とか、エレベータも手動で各階ごとに違うデザインの文字盤なんですが、「とにかくその通りにリニューアルしてくれ」という強い希望で、もう生産中止になっている「かご」は手作りになりました。
人が通ってすり減っているコンクリートの床も、凹凸があるので直そうとしましたが、そのままにしておいてほしい、という希望がありました。壁にも富士山のような大きなくぼみ(ニッチ)がありますが、珍しいようですね。建築設計事務所の方などは、部屋の窓の高さでも間取りやいろんなことがわかる、と言います。昔は住宅でしたからね。そういうことを楽しんでいただいていますね。

創業100年を迎える会社はそうそうないし、自宅も昭和10年に建てた木造住宅を大事に使っています。このビルも、同じようにいいものを大事に使っていきたいと思いますね。今回、施工していただいた東大井の集合住宅も、いつまでも大切に使っていけるような建物を、とお願いしました。そのように作っていただけたのではないか、と思っています。
―今後ともよろしくお願いします。本日はどうもありがとうございました。

 

「このビルは80年、会社も100年。いいものは大切にしていきたいですね」