192-1 原宿

2016年3月15日 at 3:35 PM

カスケード原宿 2015年秋オープニング直前  撮影:アック東京

 

写真は、弊社施工で原宿駅近くに昨秋オープンした「複合商業ビル」です。日本初上陸となる、台湾の茶房カフェやイギリス・ロンドンのカップケーキのお店、イタリア・ミラノの老舗ピッツアの店など、どれも入りたくなるお店ばかりが入店しています。オープニングから多くのお客様が訪れています。

さて「原宿」という名前ですが、今は駅名だけで町名は残っていません。そもそもどのように発展してきたのでしょうか。

1906年(明治39年)の山手線延伸により原宿駅が開業、1919年(大正8年)には明治神宮創建に合わせて表参道が整備されました。太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)、アメリカ軍による東京大空襲により一帯は焦土と化しました。(Wikipediaより)

終戦後、代々木練兵場の後に置かれた米空軍の駐留施設ワシントンハイツは、新しいアメリカの文化を伝える場所でもありました。表参道には、米軍のご用達の店が並び、今もあるキディランドやオリエンタルバザーがその名残を伝えています。ワシントンハイツは1963年(昭和38年)、東京オリンピック前年に返還され、跡地には、代々木第一、第二体育館、代々木公園などが整備されました。戦後米軍関係者用に建てられた共同住宅、セントラルアパ―トは、その後、上層階は事務所、下層階は店舗となり、カメラマンやコピーライターなど新しい職業のクリエーター達が入居する、原宿のシンボルとなっていました。(現在、東急プラザが建っているところ)

1958年(昭和33年)ころから第一次マンションブームとして、原宿駅周辺には原宿アパートメンツやコープオリンピアなど高級マンションが建設されました。1965年(昭和40年)、原宿、隠田、竹下町などの町名が整理されて、神宮前1~6丁目となり、原宿という町名はなくなりました。

‘70年代に入ると「an・an」を始め、女性ファッション誌が次々と創刊されて、それらを片手に原宿を歩く「アンノン族」が話題になりました。このころからDCブランドブームが起き、三宅一生、山本耀司、川久保玲など、個性的なデザイナーたちのお店が登場します。1971年(昭和46年)竹下通りにパレフランスが建ち上がり、ヨーロッパのファッションや雑貨を紹介、多くの若者が訪れるようになりました。原宿はファッションブランドの街として広く認知され、1972年(昭和47年)、地下鉄千代田線が開通、明治神宮前駅が開業します。

1977年に始まった歩行者天国では、ローラースケート族やホコ天バンドブームが起きました。翌年ラフォーレ原宿がオープン、季節ごとのバーゲン広告は斬新でした。
80年代には「ピテカントロプスエレクトス」がスネークマンショーなどの新しい大人のタイプのライブをヒットさせ、竹下通りの店のチープな衣装に身を包んだ若者たちは、毎週末代々木公園周辺の道路で踊るようになり、「竹の子族」と呼ばれました。
’80年代後半には、タレントが次々と雑貨やファッションの店を出店、最盛期には52店舗(そのうち42店舗は竹下通り)を数え、修学旅行生の定番コースになりました。

’90年代に入ると、表参道では海外高級有名ブランドの旗艦店が次々と建ち始めます。その通りから内側の住宅街にある渋谷川の暗渠の通りは「裏原宿」と呼ばれ、新たなファッションブランドの店やカフェが建ち並びました。そして、2006年(平成18年)、長らく再開発が話題になっていた表参道の同潤会アパートの跡地に、安藤忠雄設計による「表参道ヒルズ」が完成しました。

振り返ると、街のにぎわいを生み出してきたのはあくまで先進的な考えの「人」ですが、単独でできるものではなく、新たな因子が入り込んで化学反応のように広がっていくものだと感じます。
今、日本全体を見回してみると、新たな因子は「東日本大震災での経験」、そして「海外からの観光客」ではないでしょうか。原宿のジャニーズショップや話題のスイーツの店を訪れるアジア各国の女性たち。表参道の海外ブランド店で思う存分買い物を楽しむ中国の富裕層。彼らのエネルギーをもらいながら、街はまた確実に変化していくことでしょう。